東京の片隅から
◆中村毎太様――すつかり、ごぶさた
してゐるうちに、都會に住む僕たちに
いちばん不愉快な、雨のつゞく日にな
つて了ひました。
◆ちかごろのタイムスの特別號は、大
變興味を持つて讀みました。ことに僕
は自由畫號をよろこびます。からだぢ
ゆがだれきつて、ものういこのごろ
あれだけのものをおつくりにになつた、
あなたやみなさんの元氣を羨みます。
◆宮川氏の「新劇叢語」は、敎へられる
ところ多いと思ひます。なにしろ、五月
のはじめに、報知新聞社の舞臺で、靑
騎手小劇塲の試演があつたときに、エ
ルンスト、トラアの「轉變」といふ、表現
派の戯曲のなかの一役を演じたほど熱
心な、劇藝術の研究者であり、また至
純な理想をもつた、エキスパートであ
る氏の文章ですから信用して讀めます
◆こののち、氏は、ぐん/\と、その深
い、研究の世界を、僕たちの前にひろが
て行つてくれるだらうと思ひます。去
年の夏頃まで、一人の熱情のこもつた、
それでゐてどことなく、哲學者的理智
のひらめく、宗敎家であつた氏が、一年
とたゝないうちに、ひといきに、ありの
まゝの人間の世界の出來事のなかにお
りてきて、今では氏の談話のことごと
くが劇藝術と小劇塲運動とに關するも
のであると言つていゝ程の綴り方には
友人である僕にとつて喜びでありまた
一層氏に親しみを感じさせます。
◆僕はタイムスをよみはじめたころか
ら、野瀬市郎氏の随筆に、たまらなく
心をひかれた一人です。あなたへあて
た手紙のなかでも、折にふれ、僕は氏
の文章を讃美してゐたことを覺江てゐ
ます。僕の手に入つた氏の文章は、ほ
とんど僕の切抜帳に貼りつけてありま
す。なんでもない、平凡な日常生活の斷
片をとらへてきて、なごみない、筆つき
と、詩人らしい感情と現代の東京居住
者のもつ理性とで、しづかに、人生をな
がめ、それを描きだす氏の随筆は、あ江
て、宇野浩二氏のすぐれた小說にも劣
りますまい。自由なかたちと、純朴な感
情であらはされた氏の短歌のやはらか
な、タッチにおどろいた僕は、氏の文章
のいたるところにみいだすことの出來
る――ことに最近の「子供ごゝろ」から
感じる、氏の心境を、愛好せずに居れま
せん。氏が僕と同じやうに、映畫の愛好
者であることや、その映畫についての
感想が、いづれも急所にふれた、すぐ
れたものであることなどは、僕の大き
な喜びであります。氏の鼻の病氣が早
くなほるのを祈ります。
◆中村様――あなたは、永井荷風氏と
佐藤春夫氏とを愛好されるさうですね
僕は永井氏については何も知りません
が、佐藤春夫氏はとてもすきです。僕
は、谷崎潤一郎氏の言葉どほりに、「指
紋」がいちばん好きです。そのほか「星」
「西班牙犬の家」「李太白」「南方紀行」
「紫陽花」などは忘れ得ない印象を持つ
てゐます。あなたはきつと「指紋」より
は「星」とか「李太白」とか「西班牙犬の
家」などをこのまれるでせう。僕はこれか
ら「田園の憂鬱」と「都會の憂鬱」とをよ
まうと思ひます。
◆この間、柏崎でウ井ル、ロージアスの
「口笛吹いて」といふ映畫をやつたこと
を廣告でみましたが、僕はそれも忘れ
得ぬものゝ一つです。ちがごろみたも
のでは「ドクトルマブゼ」の撮影法のす
ぐれてゐるのに感心し「ファラオの戀」
の、破綻のすこしもない、プロットと、
エキゾチックな、美しさと、獨乙映畫ら
しい深刻なある塲面――民衆にそむい
て愛の完成に走らうとする二人に男女
が、民衆の衝動の犠牲になつて、礫をな
げつけられて、悶死するシーン、禁制を
破つて寶庫へ近寄つた男女が捉へられ
るシーン、ナイル河を、ゆるやかに舟で
旅してくる、サムラークのからだの倦
怠さを現したシーン、セオニスを助け
るシーン――などに感動させられ、「嵐
の孤兒」では、偉大なる、グリフ井ス氏
の監督藝術とギッシュ姉妹の、圓熟し
きつた藝術に心をおどらしたのです。
表現派の「月の家」は感心出來ません。
◆帝劇の「義民甚兵衛」は、野瀬氏によ
ると猿之助の方がよいさうですが、僕
は猿之助のをみませんから、正宗白鳥
氏と同じく、宗十郎があれだけやつた
といふことに感心します。谷崎氏の「白
狐の湯」は、どこがいゝかといはれると
困りますが、いゝと思ひます。たゞ又、
例の變な、干渉のためか、すこしカット
されてゐるのは不快です。かね子氏の
お小夜と彌五郎の巡査がすぐれてゐま
す。律子氏、宗之助氏ともに、近藤經
一氏の監督にそむかない出來だらうと
思ひます。
◆今、金子洋文氏の「地獄」をよみ、胸
をうたれました。明晩は、その出版紀念
の講演會と「地獄」四幕の上演とがあり
ます。それへでかけるつもりです。ご自
愛下さい。(六月十七日)
(越後タイムス 大正十二年六月廿四日
第六百〇三號 七面より)
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※「ファラオの恋」
※「ドクトル・マブゼ」
※「嵐の孤児」