Photo by pinokomaru 何んでもない手紙/品 川 力 19 一錢亭文庫 / 菊池 與志夫 2023年8月11日 10:00 ――中村葉月氏に送る―― この間久しぶりに妹の約百よぶが佐藤春夫氏を訪ねたのです。そこで氏があなたの話をされて――御手紙をいつも有難く頂戴してゐます。どなたでも御上京の節は是非御立寄りになつて下さい。手紙はかけないけれど御話するのは好きだからいつでも御待ちしてゐます。御逢ひしたら御禮も言ひたいと思つてはゐるんです。――とあなたの好意を喜んで語つてゐたそうです。 佐藤春夫氏は滅多に手紙を書かないそうで誰れかの話によると年に四五通もかけばよい方だといふことです。 餘程の出來事でもなければ面倒くさがつて手紙をかゝない彼が、越後タイムスだけは感心にいつも眼を通してゐて、―品川力て貴女の兄さんでせう―と、妹に尋ねたので、彼女はくすぐつたくて堪らなかつたそうです。 野瀨氏は三月に一度位は必ず行くそうですが、それに引かへて菊池與志夫氏はどうしたことかちつとも姿を見せないそうです。 あんなに兄弟のやうに仲よくしてゐた氏からこの一二年といふもの何んの音沙汰も無いので消息はよく知りませんが、ある人の話によると結婚したのだそうです。 幾度か失戀をされた氏がかつて僕にくれた手紙の中に、――禁酒と、獨身とは僕の一生をつらぬく、壯嚴なる約束だと覺江てゐて下さい。獨身は僕にとつて、言ふことのできないほどの犠牲です。――と、悲壯な決心に、心から彼を熱愛してゐた僕をひどく暗い氣持ちにさせたものです。 かくの如き決心をされた苦惱の彼をいくらかでも慰めるつもりで、――失戀の悲しみは無戀の悲しみよりもましであると書き送つたところ、 彼から手紙がくるたびごとに無戀の悲しみよりもましであらうか、ましであらうか?と繰返されてあるので大へん當惑したことがあります。 その時何も輕驗もないのにもつともらしい事をいつた自分といふ人間につく/″\愛想をつかしたものです。 無事に學校を終へ、無事に就職し、無事に結婚し、無事に小供を生む近頃の人間とちがつて氏は早くもあらゆる苦勞の限りをつくし、いく度か死を願ひ、また、戀に破れたその彼菊池與志夫氏が結婚されたのです。―結婚の幸福―といふ言葉を初めて完全に味ひ得るところの人間は彼をおいて他にないと思ひます。 あなたも僕と同じやうに心からの喜びを以て彼を祝福して下さる事を信じてゐます。(越後タイムス 昭和四年五月十九日 第九百八號 六面より)※品川力氏より中村葉月氏への書簡。 #品川力 #品川陽子 #品川約百 #中村葉月 #野瀬市郎 #佐藤春夫 ソフィアセンター 柏崎市立図書館 所蔵 ダウンロード copy #佐藤春夫 #品川力 #品川陽子 #品川約百 #中村葉月 #野瀬市郎 19 この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか? サポート