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一錢小說

 わたくしはひとりの可愛い

い女房を持つてゐる。可愛い

いといふよりは、可哀想なと

言つた方がいいが、とに角そ

んな女房を持つてゐる。女房

はわたくしと年が三つほどち

がつてゐる。言ふまでもなく

女房の方が若いのである。こ

れ迄にわたくしは一度だけ年

うへの女房を持つてみたこと

がある。が、どうも女に甘へる

くせのあるわたくしは、年う

への女房には不向らしいので

間もなく別れて了つた。女と

いふものは年少の男を亭主に

持つと、どういふものか憂鬱

になるものである。わたくし

が女房の機嫌をとるために、

まあたとへば、相當にまとま

つた小遣錢を持つて、散歩に

でかけることがある。わたく

しは、ひとなみよりはずつと

綺麗だと思へるわたくしの女

房と肩をならべて、銀座へん

の賑かな舗道のうへを、わざ

わざひとの眼につきやすいと

ころをゑらんで歩るきたいと

思つて、さうしやうとすると

女房は、年若な亭主とおめお

めと一緒に散歩などをするの

を、肩身でも狡く思ふためか

「もつとひとの歩かないとこ

ろへきたいわ。」と、きまつ

てこういふのである。ひとの

ゐないやうなところを歩いて

ゐたのでは、欲しいものがあ

つても見當らないし、食べた

いものがあつても食べられな

いではないか。僕はお前の好

きなもののために使つてもい

い金を持つて來たのだ。―と、

わたくしは泪ごゑでさう言ふ

のである。

 だつて、わたくしひとごみは

なんだかまぶしくつていやな

んです。―女房のこの言葉は

年若な亭主を持つて憂鬱にな

つてゐる女房よりも、わたく

しの方を餘程憂鬱にして了ふ

のである。それつきりわたく

しだちは默つて了つて、ひと

ことも話はしない。こういふ

散歩は甚だ面白くない。わた

くしは十度とほたびまでこの不快さを

我慢した。然し、十一度目たびめ

わたくしはすつかり腹を立て

て了つた。さうして二人は別

れたのである。

 今の女房はそれから一年ほ

ど後、或る事情でわたくしが

彼女の困難な生活のなかから

救けてやつた女である。だか

ら、女房はわたくしにこの點

で相當に感謝してゐるし、わ

たくしも十分今の女房に満足

してゐる。甘へるのにも年若

な女房は至つて好都合なので

ある。

 そこでわたくしは、甚だ樂

しい一日一日を暮らしてゐる。

 ところがものに倦きつぽい

くせを持つてゐるわたくしは

或る日―恰度櫻の噂さがちら

ほらとひとの口にのぼる頃の

ことであるが、ふいと女房が

いやになつて了つた。そのわ

けは分らない。餘りおとなし

い女房といふものは、或は何

か恩惠的な事情で結びつけら

れた夫婦といふものは、刺戟

がすくないせいであらうと、

ぼんやりわたくしはその理由

を考へてみた。兎に角わたく

しは今の女房がいやになつて

了つた。と言つてわたくしは

この女を並の女のやうに捨て

て了ふことは出來ない。可哀

想な女と一緒になつてゐるう

ちにわたくしは、妙に氣が弱

くなつてしまつた。

 わたくしの一日は面白くな

くなつた。わたくしはどうか

して、元どほり面白い一日を

暮らしたいと切望した。

 或る日―ふとわたくしの俥

は☓☓といふ遊郭のなかを走

つた。わたくしは遊女の事を

調べてみたいと思つて、なる

べく古い昔かたぎの家をゑら

んだ。わたくしはそこへ上つ

た。古さびた、昔のままの造

りで、夜は不氣味にうす暗か

つた。おいらんのからだに用

のないわたくしは、へんにお

いらんから可愛がられて困つ

て了つた。用はないとはいふ

もののわたくしは、おいらん

と一緒に寢たこともある。そ

れから一月に三べん位はきつ

とそこで泊つた。朝、ゆつく

りと起きて庭をみると、まる

で田舎の舊家の庭ほどにどつ

しりとして、落着いた氣持で

あつた。度重なつてわたくし

も一種風變りな遊客としての

我儘がきくやうになると、わ

たくしは、夜は昔の古ぼけた

行燈を持つて來さしたりもし

た。おいらんのからだに用の

なかつた筈のわたくしは、い

つの間にか遊女のなさけとい

ふものを泌みじみと味ふやう

になつた。

 或る晩、女はこれを讀んで

くださいと言つて一通の手紙

をわたくしにみせた。拙い文

字であつた。

 ―姉上様―辛いつとめを一

日も早くつとめあげて、ご歸

國の日を弟甚四郎は指折り

かぞへて待つて居ます。――

 さういふ文章がくどくどと

書いてあつた。この手紙はお

いらんの弟だといふ甚四郎と

いふ子供から來たものであつ

た。それの面白いところは、

弟甚四郎が何々したとか、

弟甚四郎は斯う思ふとかい

ふ風に、到るところにいちい

ち弟甚四郎と書いてあるこ

とであつた。わたくしはそれ

を讀む度に聲を立てて笑つた

「何かそんなにおかしいこと

が書いてあるのですの?」

と、おいらんはへんな顔をし

てさうきくのだ。

「いや、おかしいことはない

が、しかし、つらいつとめと

書いてあるが、そんなに辛さ

うでもないぢやないか。」

「あなたのやうな人ばかりだ

といいんですけれど。――」

わたくしはへんにくすぐつた

く甘美な氣持を覺江た。

 こうしてわたくしの趣味的

遊女買は終にはわたくしの日

常生活の一部となつて了つた

 家を明けた翌くる日わたく

しは、女房のゐる自分の家の

扉を押した。女房は矢張り淋

しさうであつた。わたくしは

只默つてゐた。さうしてこの

おとなしく可哀想な女房の人

妻らしくない澄んだ瞳をみて

わたくしの白粉おしろいくさいからだ

をひどく汚いものに思つた。

 女房はわたくしのために湯

を立ててゐた。

 わたくしは、その心づくし

浴槽よくそうにぬくぬくと身を埋め

乍ら、窓ごしに庭の赤い椿の

花をうつとりと眺めた。さう

して、その向ふの白い山茶花

の花をみた。わたくしの心に

も遂に冬が來たのだと、泪ご

ゑでひとりごとを言ひ乍ら、

いつまでも浴槽ゆぶねを出やうとは

しなかつた。

    ―昭和五年三月稿―


(越後タイムス 昭和五年三月九日 
          第九百四十九號 八面より)


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