▲そのことがあつてから、僕は大
杉氏と直接に、何んの交渉もなく
暮すべく餘儀なくされた。そして
その年の十二月末、大杉氏は日本
を脱出して、翌年四月、獨乙で開
かれる、英國無政府主義大會へ出
席する途上、巴里で捕へられ、日
本へ護送された、あの大事件は、
人の知るところであらう。そして
大正十二年九月十六日には、再び
大杉氏の身邊に最後の大事件が起
つたのである。
▲僕は、その驚くべき事實につい
て、今、何も云ふ氣になれない。
只、思想に於てクロポトキンを、
行動に於て、パクウニンを學んだ
と云はれる大杉氏が不幸にして、
憲兵などといふ野蠻人が幅を利か
し得る、そして軍人なら、どんな
非道なことをしても賞められる日
本にゐたばかりに、クロポトキン
や、バクウニンなどの想像だにな
し得なかつた、惨酷な殺され方を
しなければならなかつた運命を思
ふと、僕は悲憤の涙を、じつとの
みこむのみである。
▲この事件が、始め、危くもに消
されやうとしたのを、今日では、
一つの大きな、社會問題として、
政治問題として、國際問題として
そしてもつと大きくは、世界の人
道問題として、厳正な批判と検討
とを國民から要求されるに至つた
のは、當然ではあるが、最早今日
の日本人の一部分が、文明人とし
ての頭腦を、立派にそな江てゐる
ことを証據だつるに十分であらう
この僕の言葉を奇警に思ふ人は、
「改造」十月號の福田徳三氏の一文
を讀んでみたがいゝだらう。
▲僕は、大杉氏を悪魔のやうに云
ふあらゆる無智な人達に、氏の著
書である、「クロポトキン研究」の
一讀をすゝめる。そして猶、大杉
氏に對する誤解のとけぬ人は、白
痴である。「クロポトキン研究」に
興味を持つ人は、更らに、氏の「正
義を求める心」を讀んだがいゝ。
「一革命家の思出」「昆虫記」などは
實に翻譯の神品である。近日中に
氏の「自叙傳」が未完のまゝ、改造
社から出版されるさうである。僕
等はもう永久に、大杉榮氏の生活
をみることは出來なくなつてしま
つた。それにしても今度の天災は
實に稀有の影響を僕等の心身に、
深くやきつけたものである。恐ろ
しくも、寂しい事實である。
◇
▲W大學を卒業して、山形の方へ
行つてゐた友人のM君が、震災見
舞に上京した時に、僕達は、甘粕
などといふ野蠻人――野蠻人でも
正義觀念は持つてゐる、むしろ猛
獣にひとしい食人種といつた方が
いゝだらう――と、同じ時代に生
れたことが恥しいと語り合つた。
そのM君が山形へ歸へつてから、
僕に手紙をくれた。大杉氏には直
接何にも關係はないが、今度の東
京で起つた、いろんな事件が、地
方にゐる、インテリゲンチャの眼
にどんな風に反影したかを知るの
に参考になるだらうと思ふから、
その私信の抜萃を茲に書きつけて
みやう。
―― 一九二三、一〇、一四 ――
(越後タイムス 大正十二年十月廿八日
第六百二十二號 五面より)
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※サムネイル画像は「大杉榮氏を憶ふ (上)」に続き、Seiji Ueokaさんの
スケッチ作品。木版画の元となった画。