厭 生 家 の 消 息
(河端潤氏の作品賛美その他)―三月―
◆中村毎太様――北方の冬にとぢこも
つて、あひかはらず御壯健なのは私の
喜びです。私は最早人生にゆきつまつ
て日ごと日ごとを憂悶にとざされ乍ら
わづかに讀書三昧にまぎれて暮らして
ゐるのです。氣がむくと時どきつまら
ない散文を書いてみますが、これとて
もさう素ばらしい藝術的感激をもたら
すものではありません。
◆越後タイムスによつてはからずも親
友となつた二人の藝術家、野瀬市郎氏
と品川力氏との友情を思ふと、僕もど
うかして美しい作品をかいて、その好
意にむくひたいと日夜心がけてゐるの
ですが、まだ今の僕にはそれだけの醱
酵素がないものとみ江て、何ひとつ書
けません。
◆河端潤氏の小說は素敵なものです。
素質のいゝ人でなければあれだけの作
品は書けません。大正十一年春以來の
タイムスでは小說として第一位のもの
です。明るい氣の利いた、近代的な感
觸をもつことに於ては、或は佐藤捷平
氏の「頤」に一歩をゆづるかも知れませ
んが、その深さに於ては、われ/\の
心をうつ點に於ては、僕は河端氏の作
品を第一に推賞するものです。
◆ことに、あの作品のなかに、たゞよ
ふ厭生的な氣持を僕は好みます。河端
潤氏は或は僕をひとしく、そこ知れな
い、神秘的厭生家ではないでせうか。
僕は僕自らの好みから河端潤氏を賛美
するものです。
◆過去三年間タイムスに發表された文
章のうち、野瀬市郎君の漫筆は言ふま
でもなく愛讀してゐますが、長井常蔵
君の「首つり」「公園のベンチ」「人形」な
どは最も愛讀したものです。藝術的素
質をもつた人のかくものは、その第一
行を讀むとその香氣で分ります。僕は
藝術的氣品を持たない文章は匂ひでか
ぎ分けて讀まないことにしてゐます。
◆拙稿「思ひ出」は小生の小品のうちで
はかなり苦しんで書いたものです。小
生は文学にへんな神經質的な好みをも
つてゐますから、御採録の際はお差支
へないかぎり原稿どほりに印刷して頂
きたいと思ひます。
◆又品川力氏の譯詩は、同君からたの
まれて僕が寫しとつたものです。銀座
の街通りの大勝堂といふ立派な時計店
の二階の一室にテーブルを置いて深夜
まで藝術的勉學に陶酔してゐるわがツ
トム君は大杉榮氏のごとく吃り、大杉
氏ほど大きな美しい眼を持ち、大杉氏
ほどの名文を書く男です。ツトム君は
又僕と同じく大杉氏を好む男です、ツ
トム君の室で話してゐると、階下のさ
ま/″\な時計が、いろ/\な音響をも
つて時を知らせるのは、或は怪奇的な
お伽噺の世界を思はせるのに十分です
◆品川陽子さんといふのはツトム君の
令妹ですが、このひとが又素敵な詩人
で「若き母のうたへる」といふ詩は、佐
藤春夫氏の激賞されたほどの氣品高き
名作です。弟さんの工氏は又素質のい
ゝ美術家です。
◆野瀬君の葛飾の新居を訪ねるのは、
僕にとつてたのしみのひとつです。汽
車に乗つて友達の家を訪ねる――或は
銀座を散歩し乍らそこに住む友達を訪
ねる――これだけのいゝ生活をして素
敵な作品が書けない僕は所詮あはれむ
べき男でしかありません(三月一日夜)
(越後タイムス 大正十四年三月廿二日
第六百九十四號 八面より)
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