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何んでもない手紙/品 川 力

  ――中村葉月氏に送る――
 この間久しぶりに妹の約百よぶ
佐藤春夫氏を訪ねたのです。
そこで氏があなたの話をされて
――御手紙をいつも有難く頂戴
してゐます。どなたでも御上京
の節は是非御立寄りになつて下
さい。手紙はかけないけれど御
話するのは好きだからいつでも
御待ちしてゐます。御逢ひした
ら御禮も言ひたいと思つてはゐ
るんです。――とあなたの好意
を喜んで語つてゐたそうです。
 佐藤春夫氏は滅多に手紙を書
かないそうで誰れかの話による
と年に四五通もかけばよい方だ
といふことです。
 餘程の出來事でもなければ面
倒くさがつて手紙をかゝない彼
が、越後タイムスだけは感心に
いつも眼を通してゐて、
―品川力て貴女の兄さんでせう
―と、妹に尋ねたので、彼女は
くすぐつたくて堪らなかつたそ
うです。
 野瀨氏は三月に一度位は必ず
行くそうですが、それに引かへ
て菊池與志夫氏はどうしたこと
かちつとも姿を見せないそうで
す。
 あんなに兄弟のやうに仲よく
してゐた氏からこの一二年とい
ふもの何んの音沙汰も無いので
消息はよく知りませんが、ある
人の話によると結婚したのだそ
うです。
 幾度か失戀をされた氏がかつ
て僕にくれた手紙の中に、
――禁酒と、獨身とは僕の一生
をつらぬく、壯嚴なる約束だと
覺江てゐて下さい。獨身は僕に
とつて、言ふことのできないほ
どの犠牲です。――と、悲壯な決
心に、心から彼を熱愛してゐた
僕をひどく暗い氣持ちにさせた
ものです。
 かくの如き決心をされた苦惱
の彼をいくらかでも慰めるつも
りで、
――失戀の悲しみは無戀の悲し
みよりもましであると書き送つ
たところ、
 彼から手紙がくるたびごとに
無戀の悲しみよりもましであら
うか、ましであらうか?と繰
返されてあるので大へん當惑し
たことがあります。
 その時何も輕驗もないのにも
つともらしい事をいつた自分と
いふ人間につく/″\愛想をつか
したものです。
 無事に學校を終へ、無事に就
職し、無事に結婚し、無事に小
供を生む近頃の人間とちがつて
氏は早くもあらゆる苦勞の限り
をつくし、いく度か死を願ひ、
また、戀に破れたその彼菊池與志
夫氏が結婚されたのです。
―結婚の幸福―といふ言葉を初
めて完全に味ひ得るところの人
間は彼をおいて他にないと思ひ
ます。
 あなたも僕と同じやうに心か
らの喜びを以て彼を祝福して下
さる事を信じてゐます。
(越後タイムス 昭和四年五月十九日 
第九百八號 六面より)

※品川力氏より中村葉月氏への書簡。


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