た び 路 ――へんな原稿(四)――
――へんな原稿――第二稿――
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さういふ僕の憂鬱のさなかに、
僕はみづからもとめて自分の苦惱
を深くするやうなことをした。僕
はそのために數日のあひだといふ
ものはほとんど生活の氣持をうし
なつてしまつた。旅の仕度も手に
つかずに夜になるのを待つて、は
やくから蚊帳にはいつて泪のつき
るまで泣いた。こういふ風ではと
ても旅にはでられない―いくども
さう思ひかへしてみたが、その嘆
きをかへるすべもなかつた。さう
して日はいち日づつ暮れてゆくば
かりであつた。へんなことを言ふ
やうだが、あの旅だちの前夜など
は、もうすこしで僕はへんなこと
をしさうであつた。夜なかにこつ
そりと、暗い庭へしのびでて崖の
うへにたつた。そのとき叢からあ
の不氣味な一匹の蟇がとびだして
僕をびつくりさせなかつたら、僕
はどうなつてゐたかわからない。
葛西善藏の小說に、或る激しい雨
の晩に雨戶を一枚あけて庭をみる
と、大きな蟇が立ちあがつて踊り
くるつてゐた、といふのがあるで
はないか。
生と死とその一歩のさかひを彷
徨してゐる僕は、あの氣味わるい
動物のためにまた生きのびてしま
つた。
―甚だ朦朧としてゐるが、瀨川
潤君、君は僕がいたづらに惰眠を
貪つてでもゐたやうに思つてゐる
と困るから、これだけの、この―
たび路―の蛇足をつけくはへてお
くわけである。
こうして數日を眠らないわたし
は、はじめのうちこそなにげなく
話してもゐたが、十時を過ぎると
もう眼をあけてゐることはできな
かつた。
「おい―これが碓氷峠だ」
ひどくゆりおこされて窓をみる
と、そとは激しい雨である。もう
よほど高地へきたものとみ江て、
ひ江び江とするやうである。
「八月になると、この信濃高原に
は、いろいろな、秋ぐさが咲くし
虫がないてなつかしい風景にな
るのだが。汽車にのつてゐてみ
ると、すぐにでもおりてそこま
で行きたくなるほどだ」
瀨川潤は梟ほどに眼を大きくあ
けて、さうひとり言のやうにつぶ
やいてゐた。
「桔梗も咲くのか」
「咲くとも」
「僕はききやうを大好きだ。北海
道にゐる頃にききやうといふ停
車塲があつたが、僕はよくそこ
へ行つたものだ。山村の淋しい
驛はなつかしいものだ。電燈な
どなくて、八角がたのラムプが
ひとつ吊るさがつてゐるやうな
淋しい田舎の驛はいいな。さう
いふ驛の木柵には、こすもすや
雁來紅やききやうや、月ぐさや
向日葵や、そのほかいろいろな
僕の好きな草花を植江てあるも
のだが-それをみると、靜かな
旅愁を快く覺江るではないか」
とわたしはまた昔のゆめを思ひだ
してゐたが、ふいと、
「萩も咲くのか」とたづねた。
「咲くとも」
「僕は萩を大好きだ。月見草も咲
くのか」
「咲くとも」
「いいな。こほろぎもなくのか」
「なくとも」
わたしはこれだけで十分信濃高
原の秋景を、幻に描くことができ
た。文章でも詩歌でも繪でも、わ
たしは表現することは甚だ稚拙で
あるが、幻想に描くことだけでは
素敵な藝術家なのである。わたし
は、しばらくその風景のまぼろし
をたのしんでゐたが、ふたたび眠
たくなつた。そして―君はまるで
梟ぢやないか。君は妻君のことで
も思ひだして眠れないのだらうが
僕は苦しくて、眠くて耐らない。
碓氷峠などはどうでもよいのだ。
―とそんなことをくちのうちでつ
ぶやきながら、また滾こんと深い
眠りにおちた。
あとできくと、彼は「これが輕
井澤だ」とか、「あれが妙高山だ」と
か、「川中島だ」とか言つて、その
たびにわたしを起してくれたさう
であるが、わたしは折角の彼の好
意を全くかへりみなかつたやうで
ある。
―海がみ江る―
海ときくとなつかしさでいつぱ
いである。
ふるさとの海のいろを思ひうか
べて泪ぐむだひとよ―あなたのか
たときも忘れ得ぬ、なつかしい海
がみ江るのです。
朝である。直江津の街をあとに
すると、すぐ防砂林の向ふに、わた
しのまちかねた海がみ江るのだ。
雨はやんでゐたが、くらい朝ぞら
で、海邊の波は褐色ににごつて、
うねりも大へん高いやうである。
瀨川は一夜をほとんど眠らなかつ
たさうであるが、それでも大きな
眼をあけて、ぢつと海をみつめて
ゐる。
「だいぶ荒れたのだ」
沖の方は茄子紺いろをただ江て
ゐるが、陸にちかいところは赤土
をといたやうである。
「冬になると、ここの海は毎日の
やうにこんな風なのだが」
わたしは、陰鬱な、くらい北國
の海の荒涼たる冬の風景をも思ひ
うかべた。ながい冬を、こんな海
ばかりながめて雪のなかにとぢこ
もつてゐるひとだちのことを考へ
ると、わたしは小川未明の作品を
思ひ出さずにはゐられなかつた。
そしてまた、
―七月の柏崎の海のいろは一生
忘れられません。―さうわたしに、
泪をうかべて言つてくれたひとの
言葉を、いくどもなつかしくくり
かへしながら、そのひとの、つぶ
らな、潤つたひとみの幻のなかに
あの美しい海のいろを思ひうかべ
て、わたしはうつとりとしてゐた。
(越後タイムス 大正十四年八月三十日
第七百十七號 二面より)
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