菊池與志夫氏より(消息九)
中村毎太樣。ひさしぶりの御消息を
ありがたく讀みました。小生は今度
東京府荏原郡玉川村大字奥澤六三二
番地へ轉住しました。近來漸く身邊
の事繁忙を覺江、日毎に神經衰弱が
昂じて來ましたので到底都會に住む
のが耐江がたくなつたからです。
小生が今住んでゐるところは淋し
すぎるほどの田舎です。家の前は麥
畑で、靑い麥の穂が初夏の風にさら
さらとゆれるのが見江ます。裏は森
や竹藪を望んで夜になると田圃でな
く蛙の聲が淋しいのです。森では梟
がなきます。庭がひろいので、小生は
小鳥のために菜畑をつくりました。
ばらの花を四本植江ました。松葉牡
丹やこすもすや葵なども植江ました
これからいろいろな花を植江て樂し
むつもりです。
小生がこの土地へ移つたのは靜閑
を好む小生の趣味に依つたのであり
ます。今秋までには、このへんで最
も小生の氣に入つた風景を持つとこ
ろへ家を建てるつもりです。その家
ができあがると共に小生の隠居生活
は完全に始まるわけなのです。小生
はそれを樂しみに思つて、患はしい
仕事に沒頭するつもりであります。
あなたの御好意あり御言葉に甘へ
て、今夏も柏崎へ行くことになりさ
うです。こんどは六月の末頃になり
ます。その頃、ちょつと故郷の山口
へ歸省しますので、その歸途柏崎ま
で行く考へです。柏崎の海のいろを
今年も見られると思ふと、あの濱邊
に咲いてゐた濱茄子の花や雲雀のこ
ゑがなつかしく偲ばれます。
五月は、邦樂座の澤田正二郎と、
市村座の菊五郎と新橋演舞塲の五郎
とこの三つの芝居をみました。みな
それぞれに面白いところはあるので
すが、小生はもう芝居などを自分か
らすすんでみたいとは思ひません。
築地小劇塲などへは一度も行つたこ
ともないので、是非一度みたらどう
かと云つてくれる深切なひともある
のですが、小生などが行つたところ
で他の靑年諸君のやうに興味を持て
さうもありませんから、どうでもい
いと思つてゐるのです。どうも精神
がはつきりしませんから、今夜はこ
れで失禮させてください。
(五月廿五日夜半)
(越後タイムス 大正十五年五月三十日
第七百五十五號 八面より)
#奥沢 #玉川村 #麦畑 #梟 #柏崎 #中村葉月 #中村毎太
#澤田正二郎 #市村座 #菊五郎 #築地小劇場 #世田谷区
※当時の世田谷の奥沢は宅地開発される前で田畑が
広がっていたようです。