○○○○氏の貴族主義を嗤ふ
◇餘程前の事であるが何とかいふ
雜誌に老練なるブルジョア小說家
○○○○氏が次の樣な名論を書い
てゐた。
『社會生活に於ける平等的理想は
總ての人間が勞働者に迄成下るこ
とでは無く、一層レベルを高めて
貴族生活をするやうになる事の一
切である。』(文章は僕の記憶に據
つたので、氏の書かれたのと必ず
しも同一ではない。が併し文意は
正に此通りである。)
◇僕は○○氏の小說は大嫌だが、
此馬鹿らしい貴族主義論を讀んだ
時ムカ/\して來た。こんなタワ
言を並べてゐても今の日本では一
流の小說家として通つて行くのだ
◇○○氏に據ると、現在の貴族の
生活は、正當なる自己の勞働に據
る生産に依つて、立派に、華かに、
美しく、優雅に、愼かに、上品に營
まれてゐるんださうである。そし
て○○氏を除いて誰が現在の貴族
共が勞働所得を實行してゐると考
へる馬鹿があるか。
◇彼等は純然たる、無爲の搾取生
活一團である。完全なる不生産消
費者の代表である。僕等民衆の生
活は苦である。彼等の生活は遊び
に始り、遊びに飽滿する退屈に終
つてゐる。
◇銀座の或カフェーの二階のテー
ブルに依り掛つて、ベルモットを
飲み乍ら、貴族讃美の色眼鏡を掛
けた○○氏が、下の街道を眺めて
ゐると、音樂に、舞踏に、美術に
文學に・・・そして、ありとあらゆ
る藝術即ち生活主義を鵜呑にした
貴族やブルジョアやベティブルジ
ョアの、美しい若樣とお嬢樣が、
何とキラビやかにも亦、個々の容
姿に何とよくも調和されたる衣服
に、その天惠の肉体をくるんで、
銀座のペーブメントの銀杏の蔭を
お拾歩き遊ばす態の麗しきとよ!
そして、大きなレストランのシャ
ンデリアの下に、輝かしい、白い
顔を浮き乍ら、何と、フォークや
ナイフの運び方の巧みにも手順れ
たることよ!彼等のテーブルの上
には、實に生命掛の勞働者が、一
日中を土塊の樣に働いて得たもの
で、五人も六人もの家族を生活さ
せて行かねばならぬ丈けの金高以
上に價する、二皿も三皿もの豐醇
なる食物があるのだ。
◇あ!そして、○○氏に據ると、
それらの享樂は、幸福は、總て現
代貴族自らの正當なる勞働所得に
依つて購はれるんだ相である。
◇○○氏の此眼鏡は天國で掛ける
ものであつて、現實社會では通用
しないものであることが解れば、
僕等の眼が、○○氏のそれと正反
對であるにしても、決して僕等が
近眼のせいではないと謂ふ大安心
が出來る譯である。
◇更らに、天國の人○○氏は、貴
族主義讃美の具体的な一例を示し
て次の樣な愚論を書いてゐる。
『或日、山手線の省線電車に乗つ
た。餘り混雜して居なかつたので
自分は腰掛けることが出來たし、
未だ四つや五つの空席もあつた。
或る停車塲へ來た時に、一人の
上品な顔をした學習院の初等科の
生徒が乗つた。が、その少年は空席
の方へは眼もやらず、昇降臺の處
に、立止つて、空を仰いでゐた。平
民の子であつたら爭つて座席を獲
やうとする所なのに、その少年の
如何にも、於つとりとした、上品
な態度には、流石に「性は生れ」と
思はれて感心した。』(此引例も前
同斷である。)
◇斯うなると、僕は○○氏の天國にの
み通用する色眼鏡すれも疑はざるを得
ない。電車昇降臺へ立止ることは、已
を得ざる塲合の外鐵道規則で禁じてゐ
る。然し、○○氏に據ると、その違犯者
は悉く、「性は生れ」と感心することの
出來る貴族であるさうだ。
◇○○氏の讃美し、理想とする貴族は、
僕等から觀れば、苦惱だらけな僕等の
生活の敵だ。そして眞の人間の血の通
つてゐない泥人形だ。○○氏は餘りに
偉大なる學者であり、豫言者なるが爲
に、無智凡傭なる僕等に向つて、折角、
「貴族になれ」との難有いお言葉を賜る
が、さて無力なる僕等が、そして働らか
ねば一日だつて生きて行けない僕等が
如何にせば、その仙境に到達し得るか
如何したら、誰一人働らくこと無く、而
も立派に生活して行けると謂ふ〇〇氏
の貴族王國民に、あらゆる民衆が成上
つて行けるかといふ、その道筋をハツ
キリ否皆目敎へて呉れないので、何う
することも出來ない。「天國は善い處だ
早く昇つて來い」と手招きし乍ら、肝心
の天國の二階へ昇る階段を掛けて呉れ
ない神樣が、〇〇〇〇と呼ぶ小說家で
ある。
◇〇〇氏の神樣許りでは無い、現
代宗敎の殆んど全部が、その手で
民衆の眞眼を曇らせやうとしてゐ
るのだ。民衆が確り地面に足を踏
締めてゐなければならないのはそ
の時だ。自己の生活意識を客觀し
更にそれより强い、大なる自己の
生存意識に目覺め切り、それを發
展し、擴充し、遂に完全せねばな
らぬための反抗と自發を爲さねば
ならぬのは實にその時だ。その信
念が僕等の持つ唯一の不斷の信仰
である。
◇甞て友人の小村隆二君が、菊池寛氏
の小說「俊寛」を評して、「我々の側を金
持の自動車が通り過ぎた樣な小說だ。」
と云つた。僕は、彼の此適切なる、痛烈
なる洞察眼に感服した者であるが。實
際僕等の實生活に於て、金持の自動車
が側を走り抜けることは、直に、僕等自
身の生存の利害に關係して來るのであ
ることを忘れてはならない。
◇金持の自動車を、その儘見逃し
てはならぬ。彼等が僕等の側を、
偉張つたり,氣取つたりして通過
する度に、僕等の生活が脅迫され
てゐる不合理の根源を考へねばな
らぬ。其處に僕等の徹底的破壊反
抗の精神の噴出があるのだ。その
反抗を如何に導けば最上の効果を
得るかと謂ふ事に就いては、此文
の目的ではないし、恐らくはその
自由を許されまい。が併し、僕等
の現實の急務は、天國を考へるこ
となき、僕等自身の自由意志の進
歩發展の爲めの階段を、一足一足
益々强固に踏締めて行かねばなら
ぬことである。
◇僕は○○氏の愚論に憤慨して此
一文を書いた。〇〇氏の如き小說
家は僕等に用はないが、現代にも
猶氏の如き暴論家が生きてゐて、
而も、ジャーナリストに祭上げら
れて、好い氣になつてゐることは
默つて居れないのだ。
◇併し、後半に書いた、僕等民衆
の思想が、直に、僕等自身の生の
直接の活動に大なる關連と合致と
を有すると謂ふことを述べるのが
僕の此文の主眼であることを、更
めて、お斷りして置く次第である。
(一九二二、十、一稿)
(越後タイムス 大正十一年十月八日
第五百六十六號 三面より)
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