秋 ぐ さ (一)
秋 ぐ さ (一)
きくち・よしを
―お父さん、あそこにみ江る花は
なんといふ花でせうか。
―あの黄いろい花のことかい。
―江江。
―お前はそんなに大きくなつても
まだあの花を知らないのか。
―どこかでみたやうな覺江はある
の。だけど、めつたにみること
のない花ですのね。
―あれは月見草といふのだが。
或る父はさういつて寂しく笑つ
た。或るむすめは、だまつて、ぢつ
と窓のそとをみつめてゐる。
碓氷峠の谷あひをとほるころ、
あけぼのの深い霧のなかに、仄か
に咲きのこつた月ぐさのひとむれ
が、なつかしくわたしのこころに
しみた。あのけはしい崖のうへに
つめたい夜露にぬれてひと夜を嘆
き明かす野花のいぢらしさをしみ
じみと思ひやつて、その侘びしい
花の心をいまのわたしの身のうへ
にうつしてもみた。
むすめは、わたしの好きな顔だ
ちではなかつたが、美しい着物を
まとつて、どこかいい暮らしをし
てゐるひとらしく、ゆつたりとし
たところがあつた。ゆふべはなに
か卑俗な雜誌などに讀みふけつて
ゐたやうであるが、夜が更けて眠
るときにそのひとは、履物をぬい
で雜誌のうへに足をのせてゐた。
(わたしは、たとひどのやうに美し
いひとでも、そんなことを平氣で
するひとは大嫌ひである)
そのむすめが月ぐさの花を知ら
なかつたのである。もう幾年かま
へにものの哀れを知り、ひとを思
ひ暮らす心をも覺江たにちがひな
い年ごろのむすめが、あの月ぐさ
の花を知らなかつたのである。
わたしはそのひとを幸福なひと
だと思つた。さういふむすめを持
つそのひとの父親を、なほさらに
幸福なひとだと思つた。
月ぐさを知らないやうなひとは
きつとこの世の哀しみを知らない
ひとであらう。また、いつの日に、
いづこからとも知れず若いこころ
に忍び寄つてくる、ゆ江知れぬ寂
しさをも知らないひとであらう。
儚ないゆめや、野うばらの嘆きや
黄昏のためいきをも知らないひと
であらう。哀しみもなく、わづら
ひもなく、その裕福な父をむすめ
とは、どこへ氣ばらしの旅をしに
ゆかうといふのであらうか。
―人生は軌條のうへを走つてゐ
る。―昔、ロシアの或る作家は、
その名高い小說の主人公にさう言
はせて、ひとの世を冷たく嘲笑し
た。さまざまな意味で深い味ひを
もつその言葉を、わたしはその旅
の夜にふとくちずさんでみた。
若し人生が軌條のうへを走つて
ゐるだけならば、わたしの嘆きは
こうまで深くならなかつた筈であ
る。若い日わたしは切なくも心を
失ふこともなく、虚しい嘆きをく
りかへすこともなく、わたしの思
ふこと、わたしの心をこめて希つ
たことは悉くわたしの心を歡ばし
くみたしてくれた筈である。しか
し乍ら、なにゆ江にそれらが、わ
たしのひとひらの淡い夢として過
ぎ去つてしまつたのであらうか。
哀しくも苦しくもわたしをめぐり
過ぎていつた五年もの長い歳月が
どうしてただひとことの――人生
は軌條のうへを走つてゐる。――
といふ言葉で言ひつくされやうか
嘲り葬られやうか。なにも昔のこ
とだけではない。いままた、むかし
の哀しみを悔ゆることもなく、切
なくひとを愛慕する身となつた。
むかしの思ひをひとつに集めてあ
りし日の思ひ出を悉くそのひとの
うへにうつして、わたしは日夜を
こめてそのひとの面影と幻とのな
かにひそかに棲んでゐる。むかし
テニスンといふ詩人は―水車塲の
娘―とよぶ詩に、愛するひとの頸
に觸れるために、そのひとの耳に
飾る寶石となりたいと書いたさう
である。また、思ふひとの腰のま
はりを、しつかり堅く抱きしめた
いとて、そのひとの帶ともなり、
或はまた戀びとのやさしく匂ふ胸
にかける頚飾となつて―いとかろ
く、いとかろやかに吾れ依らむ―
と、その切なき希ひことを、詩に
うたつたさうである。
わたしもまた或る日、わたしの
思ふひとに、――たつた一日でも
いいからわたしはあなたの指にな
りたい。あなたの指はあんなにも
美しい繪を描くことができるから
―と、そのひとの描いた一枚の抒
情畫―若い乙女がひとりはつ秋の
寂しい砂丘にのぼつて、遠い海の
彼方やたかく澄んだ空をみつめて
かへらぬ昔を偲んで泣き濡れてゐ
るかたはらに、ぽつちりと咲きの
こつた濱茄子の花が匂つてゐる。
―と、ふたりで淋しく眺め乍ら、
さう言つたことがある。そのひと
が花畑の花を剪るときに、ふとそ
の指さきを花鋏でいためてほうた
いをしてゐたことがある。そのと
きもわたしは、そのひとの指のほ
うたいになりたいと希つた。ほう
たいになれば、心ゆくばかりあの
ひとのきよい血を吸ふことができ
るし、その創が癒江るまでは、い
つもあのひとと一緒に暮らすこと
もできる。夜が更けてあのひとが
ひとり淋しく寢床に眠るときにも
ほうたいになつたわたしは、あの
ひとの温かいむねのうへにおかれ
て、あのひとの安らかな寢息のお
とをきくことができる。あのひと
が、どんな夢をみるか、あのひと
のむねのひびきにぢつとみみをす
まして聽きいれば、わたしにはあ
のひとの心が、なにもかもみんな
分るであらう。ああ、わたしはせめ
てあのひとのほうたいになりたい
ものだ。
――かほどまでに思ひつめて、
さてわたしは、わたしの明日を思
ひ、五年さきの或る日に思ひを馳
せれば、ただ泪あつくあふるるば
かりである。
若しも―人生が軌條のうへを走
つてゐる。―ものならば、このや
うにいのちにかけて思ひ焦れるわ
たしの希ひは、かならずとげられ
るわけである。だのにわたしは今
はつきりと知つてゐる。あのひと
が、わたしの手のとどかないとこ
ろへ行つてしまふ日がさう遠くな
いことを。その椿の花の佗びしく
音だてておちる夕べを、わたしは
泪をうかべてはつきりと言ふこと
ができる。めぐまれぬ日のもとに
生れたものは、所詮嘆きをくりか
へすばかりで一生を終へてしまふ
のではあるまいか。してみるとさ
うだ、全く―人生は軌條のうえを
走つてゐる。―といふ言葉は眞實
である。たとへばこの夜行列車は
ひろい人生のもつとも複雜なる縮
圖である。この二等室にゆられて
ゐる人びと―月ぐさを知らない若
いむすめも、ゆたかな暮らしをた
のしむその父も、病あつきふるさ
との父母のもとに急ぐひとも、戀
びととひそかな旅に彷徨ふひとも
さうしてみたされぬ思ひをかこち
乍ら、思ふひとのまなざしを幻に
うかべてわづかに慰さめてゐるわ
たしも、妻を遠くはなれ住む身を
なげくわたしの友だちも――みな
この深夜の信濃路の山峡をぬふて
ゆくひとすぢの軌條のうへを走つ
てゐるではないか。月は宵のうち
に空を落ちて、そのあとを宵の明
星がきらきらと、あはただしく追
ひかけていつた。はつ秋の高原の
夜空には澄みきつた星宿が思ひ出
のやうに遠くまたたいてゐる。あ
すは越の海の渚をよぎるこの列車
に、このまま身をゆだねて、ふた
たびあのなつかしい海のいろをみ
たいと思つたが、わたしだちは未
明の輕井澤の街におりてしまつた
(未完)
(越後タイムス 大正十四年九月二十日
第七百二十號 六面より)
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