「あらーもうお月さまがのぼつて
きましたわ」
庭の枇杷の木のあたりで妻君が
ひとりごとのやうに呟くこゑをき
き乍ら、彼は座敷の書棚のまへで
書物を整理してゐた。十年ほどま
へから、氣の向くままに一册二册
といふ風に買ひ集めた書物が、今
ではもう五百册ほどになつてゐた
彼はそのなかから、氣まぐれに飜
譯小説を十五册ほどぬきとつて風
呂敷に包んだ。
「ゆき―戶外は風が吹いてゐるか
い?」
私は座つたままで庭の妻君にさ
う尋ねた。
緣の雨戶が一枚あけてあつた。
そこから青い月夜の庭の一部が、
幻燈の繪のやうに彼の眼に映つた
が、妻君の姿がみ江なかつた。
「いい江―風はちつともありませ
んわ。暖か過ぎるほどの晩ですの。
それに月がそれや明るくて奇麗な
空ですわ」
さういふ妻君のこゑを遠くきき
乍ら、彼は今更らのやうに妻君の
こゑを美しいものに思つた。
「ゆき―もう上つておいでなさい
直ぐ出掛けるから――」
彼は、重い風呂敷包の本を提げ
て緣へ出た。春らしいあたたかい
微風とやはらかい妻君の感觸が彼
の心にしみいるやうであつた。庭
の木蓮の甘酸つぱい匂ひがただよ
つて、白い花は月かげにあざやか
であつた。
二人は戶外へ出た。四月の或る
月の良い晩であつた。二人は月で
明るい路をさけて、わざと暗い樹
蔭を歩るいて行つた。
「本は僕が提げてゆくから、古本
屋との値段の話合ひはお前がする
のだよ。まづ僕が、これだけを幾
らで買つてくれるかつて番頭に言
ふと、幾らいくらですつて言ふか
らね。さうしたら、僕は不服さうな
貌つきになるにきまつてゐる。そ
こでお前は、ほんたうに心からた
のむやうに言はなければいけない
よ」
彼はさう言つて妻君のかほをぢ
つとみつめた。妻君は美しい微笑
をみせ乍ら、
「どういふ風に言ふのですの?」
と、彼にさうききかへした。彼は
つづけた。
「ああまたあのひとの機嫌がわる
くなつた。困つたものだといふ表
情をしながら、番頭にこう言ふの
だ。(どうぞもう五十錢たかく買つ
てください)と、これだけでいいの
だが、お前にそれが、言へるかい
?」
「なんだかお芝居のやうですのね
わたくし、できないこともないけ
れど・・・・」
「なんでもないことぢやないか。
五十錢たかく賣れたら、歸りに草
花店へ寄つてお前の好きな花を買
つてあげるが」
妻君は淋しさうに頷いた。
郊外電車の停車塲で電車を待ち
乍ら、ふと妻君はこんなことを彼
に訊ねた。
「あなた、本をお賣りになつて、
そのお金でなにかお買ひになるの
?」
「うん――いいものを買ふつもり
だよ」
「いいものつて?」
「着物でも食べるものでもない。
―なんだか當ててごらん」
「さうね。花かしら」
「花も買ふ。しかし花だけならな
にも本を賣るほどのことはないぢ
やないか」
「さうね、わたくしには分りませ
んの」
「十姉妹さ」
「ほんたうですの。十姉妹つて、
あの小さな可愛らしい、巢引きの上
手な小鳥のことでせう」
「さうだよ。僕このあひだ田舎の
友達の家へ遊びに行つて、そこで
十姉妹が澤山雛をかへしてゐるの
をみたら欲しくて耐らなくなつた
のだ」
「まあ、さうなれば家は小鳥だら
けなのね。今六羽ゐるから、十姉
妹をお買ひになると、八羽になり
ますのね」
「ところが今に雛がかへるから、
秋までには二十羽ぐらいになるか
も知れない。小鳥などは幾羽ゐた
つていいぢやないか。どうせ、僕に
は子供はできないのだから。――」
「どうしてですの?」
「どうしてつて――きまつてゐる
んだよ」
「どうしてきまつてゐるのですの
?」
彼は眉をひそめて、空の星をみ
あげた。
「お前、今夜どうかしてゐるね。
そんなことを男にくどくどと訊く
ものではないよ。現に僕らには、
五年にもなるのに子供がないぢや
ないか」
さう言ひ乍ら彼は眼ぶたがあつ
くなるのを感じた。さうして、甞つ
て彼を淋しくした四人の女のおも
かげを、幻のやうにふと思ひうか
べたが、それらは空の星のやうに
遠い美しさであつた。
二人は別々な寂しさを覺江乍ら
中央停車塲行の電車へ乗つた。
一時間の後であつた。彼らは又
靜かな路を歩るいてゐた。彼の手
にはもう本の包みはなかつた。彼
はステツキを兀々と突き乍ら、の
びのびとした氣持で、妻君と肩を
竝べてゐた。
「矢張、お前は僕のいちばん好き
な女だ。さつき、古本屋で、僕が
賴んだやうにしなかつたのは大
へんいい。若し、お前が僕の言
ひつけどほりに、(五十錢高く買
つて呉れ)などと、本當に言ふや
うなら、僕はお前に失望したか
も知れない」
さういふ彼の言葉をきき乍ら、
妻君は嬉しさうに頷いてゐた。
それから又三十分の後であつた
彼らは或る街通りの明るい夜店の
なかを歩いてゐた。いかにも春
らしい晩で、冬の衣服をぬぎ捨て
たばかりの、無雜作な散歩姿の人
びとが賑かに往來してゐた。二人
はさういふ群集に氣らくに交るこ
とができるほど晴ればれとした氣
持であつた。金魚屋の店さきに彳
み乍ら、水桶のなかで、氣味のわ
るいほど大きな影坊子を水に映し
て游いでゐる金魚をみて彼は面白
く思つた。
「魚は影がいいぢやないか。目高
みたいな小さなものでも、その
影坊子は不氣味だね」
彼はさう言つて妻君を顧みたが
彼の言葉どほりに彼女にはわから
なかつたのか、妻君はただ無興味
に笑つてゐた。
彼は又歩るきだした。
アセチリン瓦斯を點もした野菜
店の前に來たときにふと彼は立ち
止つた。さうして一把五錢といふ
札の下の小松菜をステツキでひつ
かけ乍ら、突然、
「ゆき――これを買ふよ」
と、妻君に言つた。
妻君は微笑し乍ら紙入から五錢
白銅を一枚出して野菜屋に渡した
菜把は彼が持つた。
水が滴つて、新らしい青い匂ひ
がした。
貧しい夫婦が夜店で五錢の青菜
を買つてゆく――さう思つてみる
のだらう、行き會ふ人びとはみな
へんな一瞥をふたりに與へた。
然し、二人は樂しい氣持であつ
た。月はもう大分たかくのぼつて
ゐた。星のひかりは遙かであつた。
やがて又ふたりは暗い寂しい路へ
出た。古い家の庭の櫻の老木はふ
つくらと蕾をふくらませてゐた。
その樹の下でお母らしいひとと二
人づれの若い娘さんに行き會つた
年を老つたひとは、大切さうにそ
の美しい娘さんを護るやうにして
歩るいて行つた。暫らくして、
「ゆき――今のひとだちをみたか
い」
彼は又突然さう言つた。
「江江。みましたわ。奇麗なひとな
のね」
「お前もあの年頃のときには、お
母さんにあんな風に大切にされ
たことだらうね。女は誰でもあ
の頃がいちばん幸福だらうな」
「さうでもありませんの。やはり
妙にさみしかつたの」
「あんなに大切にされても、僕の
やうな男のところへお嫁にくる
のではつまらないからな」
「まあ――なにを仰有いますの。
わたくしほんたうに今がいちば
ん幸福ですわ」
彼は妙に妻君が可愛かつた。彼
はわざわざステツキを持ちかへて
妻の手を握つた。それは戶外での、
久振の握手であつた。
彼らは庭隅の土を掘つて、買つ
てきた小松菜を植江た。もう月は
まうへにあつた。木蓮の匂ひはな
やましいほどたかく匂つてゐた。
それはもう五月の若葉の頃が近
いことを思はせた。
彼らは朝のやうに雨戶をみな開
け、緣の籐椅子に凭り掛つて、
この月の良い春の夜更けを、紅茶
を啜り乍ら樂しみ飽きなかつた。
「明日のあさは、あの新鮮な菜を
カナリアに食べさせやう。目白
の青味にもしやう。今夜はこん
なにいい晩だから、明日もきつ
と暖かく晴れるだらうな。草花
店からは花が三鉢とどくだらう
し鳥もよく囀づるだらうから僕
明日は社を休むよ。さうして、ふ
たりで十姉妹を買ひに行かうか
十圓ぐらいで買へるから、恰度
本を賣つただけで買へる。――」
彼はひとりごとのやうにさう言
ひつづけ乍ら、妻君と微笑み合つ
た。妻君は、ふと卓子の下から、
家計簿をとりだして、いつもする
とほりに卓燈をひき寄せ乍ら、ペ
ンをとつた。彼は、卓燈の明かり
に、くつきりと美しくういてみ江
る妻君の襟くびを可愛く思ひ乍ら
やがてペンを置いた妻君の手から
家計簿をとつてみた。
―――――――――
四月☓☓日夜。フロオベル著、
中村星湖譯ボヴリイ夫人外十四
册を神田の古本屋へ賣りました
(十圓収入)
仝日。草花店で、チュウリツプ
一鉢、さくら草一鉢、フリ井ジ
ア一鉢を買ひました。
(二圓支出)
仝日。夜店で小鳥用小松菜を一
把買ひました。 (五錢支出)
――――――――
彼は、小學生のやうに讀みあげ
乍ら、妻君と一緒にたからかに笑
つた。
戶外はあひかはらず良い春の月
夜であつた。 (十五年四月稿)
(越後タイムス 大正十五年四月十八日
第七百四十九號 五面より)
ソフィアセンター 柏崎市立図書館 所蔵
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