善意は無尽蔵ではない
年末年始、昔はテレビの特番などを楽しみにしていました。今ではすっかりそんな習慣もなくなったので、よく知りません。
東西お笑い対抗みたいな番組、今年もやってたみたいですね。あれも新年の楽しみな番組のひとつでした。お正月のおめでたい雰囲気もよかったです。
その番組に出ていたネタで、不定期的に探しにいってしまうのが、かまいたちのコントです。中国の動画サイトにあるので、一応、リンクを貼っておきます。
ある生徒が花瓶を割ってしまうところから、物語は始まります。その生徒をかばうため、ひとりのクラスメートが先生に「自分が割ってしまいました」と嘘をついてあげます。
しかし、かばわれた方の生徒が、嘘をついて守ってくれたクラスメートを追い詰めていき、嘘をついてまでかばってくれた方のクラスメートが大変な目に遭うというストーリーです。
コレ、めちゃめちゃ可笑しいです。可笑しいですけど、コレは現実に起きていることだとも思います。
これだけの経済援助をしたところで、中国から日本に向けられるのは、強烈な反日運動・プロパガンダばかりでした。日本からのODAを受けておきながら、同時期に中国は、アフリカへの経済支援を通じて、同地での利権を大幅に拡大させていたといった指摘もあります。
経済的な支援だけではありません。
天安門事件により、国際社会において完全に孤立化してしまった中国に対して、救いの手を差し伸べたのは、ほかでもない日本でした。当時の首相や天皇の訪中は、中国に課せられた経済制裁を打破するのに、非常に効果的であったと言われています。
もちろん、今の中国から、そうした日本の対応に対するポジティブな反応が示されることはありません。むしろ、日本を追い詰め続けています。
まさに、かまいたちのコントさながらの状況です。
「俺の優しさを踏みにじってるのが嫌や(泣き声)」
ほんと、こんな感じではないでしょうか。これが中国の動画サイトに掲載されて、中国語圏の人々に楽しまれているというのは、これはこれで、ちょっとしたジョークのようにも思えます。
ただ、このテーマで、ひとつだけ考えておきたい問題があります。
それは、そもそも善意などというものは、無尽蔵ではないということです。余裕がない状態で、善意を振りまいてしまうと、大変なことになる可能性があります。少し言い方を変えるのであれば、「捨てられてもいい」、「踏みにじられてもいい」範囲で施していかないと、いろいろとトラブルの元になるということです。
例えば、一番分かりやすい例でいえば、お金の貸し借りです。
困っている人に善意でお金を貸すこと自体、悪いことではないと思います。むしろ、道徳的な行為と言えるかもしれません。しかし、自分にとって必要なお金や無理して作ったお金を貸してしまうと、(相手の善意・悪意に関わらず)お金が返ってこなかったとき、トラブルになりかねません。
自分も余裕がないわけですから、「なんで返してくれないんだ!」、「返してくれなきゃ困るだろっ!」ということになります。
お金を貸してあげるときなどというのは、返ってこなくてもしょうがないと思うくらいがちょうどいいものです。「捨ててもいい」とまでは言わなくても、「返ってこなくてもいい」、「踏み倒されてもいい」くらいの範囲で、余裕をもって、できることをするのが基本です。
善意なんてものは、無尽蔵ではありません。無尽蔵でもないのに、それを無理にひねり出そうとすると、相手に裏切られたときに大きな傷を負ってしまうことになります。善意を施すときというのは、自分にも、それなりの余裕がないといけないということです。
つまり、いくら善意を施したくても、自分に余裕がないのであれば、それは「相手の問題」と割り切ることも必要だということでもあります。それは、少し違う話に聞こえるかもしれませんが、こちらで言及した「間」の話に通じるものです。
どこまでが自分の問題なのか、どこからが相手の問題なのか、自分が関われるのはどこまでか・・・そういうことを抜きにして善意を施すと、いろいろと揉めたときにややこしくなります。
ただ、日本と中国の問題については、そもそもが「善意の話」とは違うかもしれませんね。
ただ政治家が、利権でつながっているだけ・・・?
そういう意味で、国家間の善意などというものはよく分かりません。
少なくとも私たちは、個人レベルで「かまいたちのコント」みたいにはならないように、心がけていきたいものです。
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