「専門家」は使ってナンボ
社会を生きていくうえで、うまく自立して生きていけるかどうか、心配な人はたくさんいると思います。
「専門性を磨いていかないといけない」
「これからの時代、専門性が大事だ」
先日、ちょっとそんな言葉を耳にしました。
否定はしません。専門性、あったらいいんじゃないでしょうか。
でも、「専門性こそが生き抜くために必要」と決めつける必要はないと思います。
むしろ、専門性を磨いてしまうことで、周囲や全体がみえなくなる弊害も多くあります。専門性があるから優秀で、世の中のことがよくみえているとは限りません。
喩えていうならば、「専門性を磨く」というのは、「よく切れる包丁」になるというのと同じです。それ自体、とても大切なことではあります。無視できません。「よく切れる包丁」は、いろいろなところで重宝されます。当然、それを求めてくれる人はたくさんいるでしょう。
しかし、その包丁に価値が出るかどうかは、使い方次第です。どういう料理を作るかだけではありません。人を殺すことだってできてしまうのです。
そんな「よく切れる包丁」になることで、満足するなんてもったいないです。
大切なのは、あくまでも何を成すか?です。専門性自体に大きな価値があるわけではなく、それをどのように使うか、どう意味づけをするかによって、その価値などというのは、いかようにでも変わってしまうことを十分に知っておく必要があります。
ちょっと話が変わります。
私は総合政策学部という学部を出ました。私は3期生で、総合政策学は、まだまだ新しい学問として出発したばかりでした。それまでのように「法学部」や「経済学部」といった特定の限られた学問体系のなかで思考し、その枠組みのなかで専門性を磨くのではなく、広く「総合的」な視野を持って、学ぶことが求められたのだと思います。
最近、その学部長が、昔からよく知っている先輩になっていたことを知り、割と愕然としました。
その先輩は2期生(ひとつ上)で、高校のとき、どこの学部に進学すべきか、いろいろと個人的に相談に乗っていただいたりもしました。大学入学後は、サークルも同じで、よく一緒に飲みにもいきました。果ては、研究室(ゼミ)も同じだったので、それこそ大学時代の学びにおいては、かなりずっとご一緒させていただいていたことになります。
なので、時折、先輩が書いた記事なんかを読むことがありました。
その先輩も、私も、小島朋之先生という中国政治の専門家の研究室に身を置いていたので、先輩の記事は、自ずと中国共産党の話が多くなります。
うん・・・それはそれでいいのです。
でも、例えばこの記事、何の役に立つのだろう???という疑問が湧き起こってきてしまいます。
読んでみて、「勉強になった」という感想が出てきません。
先輩は、あきらかに中国の専門家です。それもトップクラスです。専門家であるからこそ、そしてまた中国共産党との太いパイプがあるからこそ、新型コロナ発生時における中国共産党内部の事情について、これだけ詳しい記事が書けるのでしょう。
でも・・・それで?と思わざるを得ないのです。
中国共産党が「国際的な団結の必要性を訴えた」などという話を、大真面目に記事にして、「積極的に評価するべきだ」なんて論じてしまうのは、中国共産党の真の姿を捉えているとは思えません。
こんな記事をいくら読んだところで、何かを新しく学んだというような気になれないのです。
そもそも、新型コロナウイルスの発生については、怪しいところがたくさんあります。
人工説を含めて、中国共産党が(ネガティブな意味で)深く関与していると思われる状況証拠は数多くあります。真剣に検証されなければなりません。
そして、それらが意味することは、私たちの生活が、中国共産党によって著しく危険な状態に晒されているかもしれないという可能性です。それもシャレにならないレベルでの大きな実害です。
総合政策学部長であるならば、そうした実害の可能性を踏まえたうえで、中国共産党の問題について、きちんと分析をしていく必要があると思います。
総合政策学が、「社会問題を解決するための方法を研究する学問」であり、「実学重視の学問体系」であるならば、当然のことです。
それにもかかわらず、そうした問題に切り込まず、コロナ関連の情勢について、中国共産党から出てきている話をまとめて、中国の貢献を「積極的に評価」だなんて・・・とてもではありませんが、受けれ入れる気にはなれません。
そのようにみてみると、「先輩、その知識や専門性、何のために使っているんですか?」と思わずにはいられなくなります。
ただ一方で、先輩の気持ちも、とてもよく分かる気がしています。
先輩は、中国の専門家なのです。専門家としては、中国共産党をよく知っていなければならず、もちろん内部事情にも精通している必要があります。そんな専門家としての生命線のひとつは、中国共産党の人たちとの太いパイプでもあるでしょう。当然、共産党批判なんてするよりは、仲良くしていた方がいいにきまっています。
また、そんな情報網や専門性を活かせば、他の人には絶対に書けないような中国に関する記事が書けるわけです。結果、「世の中がみえている気」になってしまうのも理解できます。
専門性、万歳ですっ!
しかし、先輩の総合政策学部長としての立場を考えると、どうしてもそれではいけないのではないかという気がしてなりません。
もちろん、この専門性の問題は、先輩が総合政策学部長だからということに留まりません。私たちも、大いに考えなければいけない問題です。
私たちひとりひとりが、そうした専門性に目を奪われて、社会の全体像を眺めることができなくなったら、事の本質を見抜けなくなってしまいます。「よく切れる包丁」を目指すのも結構ですが、最終的には、それをどのように使うかというポイントを抑えていないと、専門性も意味を成しません。
したがって、混迷を深めている今のような社会において、私たちが専門性を高めて、自ら視野を狭める必要はないと思います。それよりも、いろいろな専門家が、それぞれの立場でどんなことを言っているのかをよく眺め、それらを総合的につなぎ合わせ、社会の実情を捉えることの方が重要です。
ゆえに今、敢えて言うべきは、「専門家になんてなるな」ということです。
世の中の仕組みが、大きく変わろうとしている今だからこそ、既存の学問体系や領域・分野にこだわることはありません。これからの混迷の時代においては、「専門性を磨く」ことよりも、「専門家を使う」ことを考えるべきでしょう。
そうしたノウハウが、これからの混迷の時代においては、実学として機能する可能性が十分にあります。そして、もしかしたら、そうやって「専門家を使う」こと自体が、これからの時代に大きく役に立ち、ひとつの学問になっていくかもしれません。
上の記事に記した「得意を活かした相互依存」というのは、まさにそれぞれの得意(ちょっとした専門性)を活かしていくことで、ひとつのコミュニティーが形成されていくイメージです。人それぞれ得意なものはありますし、ちょっとした専門性というのは、何かしらあるものです。お互い、それらを使っていきましょうということになります。
ということで、専門性?
今さら、あまりそんなものにこだわらなくていいんじゃないでしょうかね。