策士ではなく道理士たれ
人間、困難に直面してしまった時、あれこれ策を考えてしまうものです。
「どうしたらいいだろう?」
「こうやったらうまくいくかな???」
考えること自体、悪いことではありません。いろいろと問題を整理して、何が得策なのかを探ることは、ある意味、当然のことです。
一方で「策士、策に溺れる」などという言葉もあります。
先々のことまで考えて、計算を張り巡らせて、立派な策を立てたところで、それが回り回って、最後は自分の首を絞めるような結果になるということも多々あります。自分が考えた策に対する相手の反応が、直接・間接を問わず、計算外に働いてしまえば、そのズレは巡り巡って、自分を苦しめることになるわけです。
「相変わらず、すごい策士だよね???」
私は、たまにこんな(お褒めの?)お言葉をいただいたりします。私の小さな言動によって、周囲の人々がグルグル動いて、結果的に私を利するようなことが、多くあるようです。実感はありません。ただ、そういう人の解説を聞いてみると、たしかにそのような側面があります。
「なるほど、たしかに・・・」
しかし、私が明確に言えることは、私はけっして策を巡らせてはいないということです。私が発する言動によって、相手がどのように動くかなどということも、ほとんど考慮していません。
大切なのは、その時・その瞬間に「最高の一手」を打つということです。その一手一手の積み重ねこそが、自分の人生を豊かにする(=自分を利する)ことにつながるわけです。
ここで重要なのは、「最高の一手」なるものが、策のような計算の類ではない点です。それはある種の「閃き(ひらめき)」から生まれるものであり、他の言い方をすると「自然の摂理に沿った選択」とでも言うべきものになります。
おかしな言い方に聞こえるかもしれませんが、このことは成功の秘訣として、広く知られていることでもあります。
偉そうに振舞ってみたところで、所詮、人間も自然(宇宙)の一部に過ぎません。私たちは、自分たち自身が、主体的に物事を考えているように信じ込んでいますが、その実、宇宙の摂理に従って、そのように考えさせられているだけという話もあります。
私たちの思考が、脳の電気信号によってもたらされるものだとすれば、それはあくまでも、自然の摂理で、水が高いところから低いところへ流れていくかのごとく、ごくごく自然なことが起こっているだけで、私たちが偉そうに「自分で考えているんだ!」などとも言えなさそうです。
したがって、成功の秘訣として、宇宙の摂理を考えることが重要となるのであり、無我の境地などに接して、自分と自然(宇宙・全体)を一体化させることが、カギになるというわけです。いわば、策を張り巡らせる「策士」ではなく、道理に沿って生きる「道理士」になるのが肝要ということです。
うん?世の中、不条理なことだらけ?
そう言いたくなる気持ちは分かります。実際、そういうものを拾いに行ったらキリがない世界です。勉強すればするほど、この世界はバカバカしくなるほど、理不尽なことで溢れかえっているようにみえます。
しかし、だからこそ、せめて自分が生きる世界、自分が見て触れられる世界は、道理に満ちたものに変えていくことが重要なのです。そのためには、道理に沿った生き方を通していくことが大切です。世の不条理や理不尽な人たちとは、きちんと距離を置くことを心がければ、自分の世界を道理に満ちた世界に変えていけます。
それが道理士としての生き方です。
ただし、道理に沿った生き方なんて、実は、そんなに大層なものでもありません。一言で言えば、悔いのない人生を送ることだと思います。ひとつひとつの決断に対して、けっして悔いのないように、全身全霊を傾けて、向き合っていく・・・そういうことです。
ベタですが、瞑想なんかもいいかもですねぇ・・・。
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