創造神としての自覚
こうやって記事を書いていて、私が考えたり、感じたりしていることが、どれだけ伝わっているのかというのは、正直、よく分かりません。実際、自分なりには出し切った表現をしているつもりでも、なかなか全部は伝わらないものなのだろうと思います。
そんななか、今回書こうとしていることは、とくに伝わりにくいかもしれません。でも一応、私なりに工夫をしながら、書いてみます。
シティーズスカイラインというゲームがあります。
ゲームも、ここまできたかという印象です。本物の街と見紛うほどの完成度です。実写だと言われても、気づかないかもしれません。
このゲーム、私もやったことがあります。
これが私が作った街です。かなりキレイに作れます。
駅前のビルなんかも、かなりそれっぽく作り込むことができます。
ただし、このゲームでは、こうやってビルを建てて、街を作るだけではありません。
街には、人が生活をしています。
そして、この街に出歩いている人たちには、みんな名前があります。
それだけではありません。家族がいて、職業があって、学校に通ったり、仕事に出かけたり、旅行に行ったりします。車で出かけることもあれば、バスで移動することもあったり、歩いてみたり・・・とにかく、この世界のなかで生活をしているのです。
この世界で生まれて、死んでいくのです。
すごくないですか???私は、とてもすごいと思います。
このゲームをやっていて、ある程度まで街が大きくなって、人がたくさん集まり始めたら、この自分が作った街に住んでいる誰か一人を追っかけて、その人がどういう生活をしているのかをみてみるというのも、このゲームの遊び方のひとつです。
※通学路とか、通勤路をみているだけでも、結構楽しいです。
ただし、このゲームのなかで、新しく道路を敷いたり、線路を繋げたりといったことは、勝手にしてくれません。警察や消防署、学校といった特殊施設も、街の住民が勝手に作ってくれたりすることはありません。
勝手にしてくれないので、そこはプレーヤーが操作してあげる必要があります。でも仮に、これすらも、勝手に街の住民が行えるようになっていたら、本当にすごいことになります。
放っておいたって、彼ら住民が、勝手に道路を作って線路も敷いて、街を拡張していくことになります。さらには、必要に応じて警察や消防署、学校など、彼ら住民が必要だと思ったものを、自らの判断で作っていくことになることを想像してみるのです。
そうなったら、もうそこにはひとつの世界が完成していると言えてしまいます。
プレイヤーは、その世界のベースを提供するだけです。その世界をベースにして、あとは彼ら住民が、勝手に街を発展させ、勝手に家族と社会を形成して、勝手に生きて、勝手に死んでいくという世界ができあがっていくわけです。
ここで・・・ちょっと話がぶっ飛ぶかもしれません。「神様?あ、そういうの無理」という方は、この先、ご遠慮願います。
あらためて、以下の記事を踏まえたうえで、この世界を眺めてみます。
私は、一人一人が神様になりえるという話をずっとしてきています。それは、何も特別なことではありません。全員にチャンスがあると考えています。
たまたま私自身、「自分は神様だ」と考えるようになっていますが、これは私だけの特権ではありません。一人一人には、秘められた可能性があると思っています。
で・・・そんな「神様視点」で、あらためて、この世界を眺めてみるのです。すると何とも・・・この世界が極めて精巧にできたシティーズスカイラインにみえてしまうのです。
それを作ったのは誰か?言うまでもなく、神様である私です(笑)。もう少しツッコんだ言い方をすると、創造神である私です。
※正確に言うと私だけじゃないんです。みんななんです。でも、みんなが気付いてないようなので、とりあえず、気付いた私だけでも、コレを言わせていただきます。
そんな私が何をしたかといえば、コレです。
この宇宙を成り立たせ、その後、発展できるように様々な物理定数を用意したのです。そのうえで、この宇宙を誕生させました。そうしたら、勝手にいろいろなものが生まれ始め、生命が誕生し、地球ができて、人間が生活を始めました。
そのできあがった世界(宇宙)たるや、それはもう本当に見事なものです。
例えば、ゲームのシティーズスカイラインのなかには、車が走っています。それらの車には、いろいろな色のパターンがあったり、乗用車とトラックがあってみたり、それらにも車種があったり、多種多様です。
しかしさすがに、その車のなかにはエンジンはないですし、ガソリンも入っていません。本来、それぞれの車には、それを作っている企業があって、その企業の社屋があったり、社長がいたり、組織があったり、下請け企業があったり・・・でも、そんなことまでは再現されていません。
ところが今、私たちの目の前に広がっている世界では、それらがみんなあるのです。すごいことです。そんなところまで、ものすごく精巧にできていると言えます。
それだけでありません。国家もできました。すごい仕組みです。そして、その国家を利用しようとする人たちがいます。それに反発しようとする人も出てきました。法律を作って、そんな反発をコントロールしようとしたりもしています。
とにかくみんな、そのなかで必死に生きようと頑張っているのです。それは、私が用意した「この宇宙」で、いろんな活動をしてくれているということです。
そんな設定まで、精巧に描かれているシティーズスカイラインは、もう感動しすぎるくらい、半端ない出来栄えに仕上がっています。
そして今、私は、そんな半端ない出来栄えのシティーズスカイラインのなかに、一人のキャラクターとして参加させてもらっています。自分が作った世界に、自分がキャラとして参加できるなんて、メチャメチャ感動します。
もちろん、この世界にもいろいろあります。喜怒哀楽、悲喜こもごもでしょう。でも逆に、参加されている人たちが、本気で泣いたり、怒ったり、笑ったり、喜んだり・・・それが本気でできるくらい精巧にできた世界が、私が作ったものだと思えたら、もう感動しかありません。
・・・どうでしょう?やっぱりあんまり伝わってないでしょうかね?変な話?うん、そりゃそうですね(笑)。
でもとにかく、最近になって、今、私たちの目の前に広がっている世界が、そんなふうにみえて仕方ないのです。
私の感覚も、いよいよ最終地点を見据えて、歩みを始めたという感じなのかもしれません。
ただ繰り返しですが、これは私だけのものではありません。今、この世界に生きている全員に、そう感じられる(「自分が創造神」と思える)チャンスが与えられていると思います。
最近、よく「覚醒」とか、「目覚め」とか、そういう言葉を耳にします。政治のシステムに気づくとか、DSがなんちゃらとか、そのあたりのレベルで「覚醒」とか「目覚め」とかいうのではなく、せっかくならば、「あ、この世界は自分が作ったんだな?」くらいの次元で「覚醒」や「目覚め」という言葉を使えたら、いいのではないかと思うのでした。
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