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臨死体験は脳内妄想か?

臨死体験ってどうなんでしょうか。実際のところ、よく分かりません

この手の話は、その本人しか知らない世界なので、例えば、そんなものは死にかけた人の脳内で起こる、典型的な幻覚現象と決めつけることもできるかもしれません。実際には、そんな幻覚があったわけでもなく、ただただをついているだけだと言う人もいることでしょう。

しかし私には、それらをただの幻覚だの、虚言だのと切り捨てることはできません。仮にそこに嘘が含まれていたとしても、そこから拾える真実や検証すべきテーマもあるのではないかと思います。

ちょっと長い動画なので、時間がある方でないとお薦めできませんが、こんな話があります。

長野県・佐久出身の木内鶴彦さんという方の臨死体験に関する動画です。

臨死状態になった木内さんは、強く思うだけで時間と空間を移動できる意識だけの存在となり、現在の空間だけでなく、自分が幼かった頃、中年の自分や年老いた自分が生きる未来の世界などを見てきます。

そして、ここから先がちょっと独特で面白いところです。

木内さんは、宇宙の始まりが本当に「ビッグバン」だったのかが気になり、それを見に行きます。そこで木内さんが見たのは、宇宙の始まりは「ビッグバン」ではなく、「ひずみ」から宇宙が生まれたということだったそうです。

宇宙が始まる前に存在していたのは、膨大な「意識」だったといいます。この膨大な「意識」というのは、宇宙全体の「意識」であり、木内さん自身の個の「意識」も、この宇宙全体の「意識」の一部であることを感じたそうです。

この宇宙全体の「意識」の「ひずみ」から生まれたのが、私たちの三次元世界であり、それは生まれた瞬間から、その「ひずみ」を解消するために動き始め、「意識」のちょっとした歪みを直すために存在しているということだと、木内さんは理解したといいます。

この経験を通して、木内さんが思ったことは、死とは無である。「意識」に戻るということ。でもそれは、すべての知識や経験を持っている。すべては自分自身だという退屈なものだと感じた。

何とも興味深いことではないでしょうか。

というものが、宇宙全体の「意識」に帰るということを意味しており、それは全知全能過ぎて退屈だというのです。

逆の言い方をすれば、今、こうして生きているというのは、全知全能ではなく、いろいろな制約や制限があるからこそ、それを乗り越えたり、克服したりする楽しみがあるということになります。

死後の世界は、とてつもない退屈な世界です。すべてが自分であり、何の疑問もない世界です。それは辛くも、苦しくもない世界です。ときめきも、喜びもない世界とも言えます。
この世にはさまざまな制限があります。でも、だからこそ自分の能力を目一杯使って、生き延びていくことが、とてつもなく素晴らしいことだと気づいたのです。

私なりには、こんな結論が得られるのであれば、その臨死体験なるものが真実か、虚偽かは、もはやどうでもいいもののようにすら思います。

あ、いや、それは言い過ぎかもしれません。

けれども、私にとって、この結論にはまるで違和感がありません

人にはそれぞれ、「死生観」というものがあると思います。そうした「死生観」があればこそ、「自分は何のために生きているのか?」、「何をして生きていきたいのか?」などが見えてくるのだと考えます。

そうした「死生観」をかたちづくるうえで、木内さんの臨死体験は、非常に興味深いテーマやヒントを、私たちに与えてくれているのではないかと思えてなりません。

そういう意味で、この脳死体験の話は、真実か虚偽かという次元を超えて、非常に意味のある内容になっているのではないかと思うのです。

仮に、この脳死体験の話に対して、「そんなのただの脳内妄想だ」という人がいたとしても、問題はそこではありません。こういう話に接して、「では、貴方はどう生きるか?」という問いに対する答えに、いかに近づくことができるか、それがもっとも大切なのではないかと思います。


仮に、宇宙全体の「意識」の「ひずみ」から、この三次元世界が生まれたのだとしたら、それを直してやればいいだけのことです。苦しみや、悲しみは、その「ひずみ」から生まれ出たものかもしれません。それはそれとして受け取り、それらを喜びや楽しみに変えていくことができれば、この三次元世界の存在意義を高めることになります。

「ひずみ」の修復いたしましょ。せっかく生きているんだから、楽しくいけばいいのだと思います。


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