江戸が「東京」になった理由
無思考って、嫌な言葉です。しかし、誰にでも、無思考というのはあると思います。
すべてのことを考えるなんて、当然ですができません。人間の行動は、90%が無意識などというくらいですから、ほとんどのことは、思考していないと考えてもいいでしょう。
けれども、私たちがそんな無思考だらけであるとしても、大事なことについては、きちんと思考しておきたいものです。
ちょっと話が変わります。
かつて「江戸」と呼ばれていた場所が、何故、「東京」になったかということについて、考えたことはあるでしょうか。これも、ほとんどの人が、あまり真剣に考えたことがないのではないかと思います。
一般的には、このように言われています。
「なるほどぉ」と思われるのなら、それはそれです。学校の授業で、このように教わっていたら、「へぇー」と納得するだけです。思考は必要ありません。「そうなんだー」でおしまいです。
でも、ここでもう少し思考してみたらどうかと思います。
思考をせず、そのまま丸暗記することも可能です。しかし、どれもイマイチで「たしかにー」と感心するほどのことでもありません。
明治維新については、いろいろな問題が指摘されています。
そのうちのひとつが、明治天皇が別人(南朝の末裔)にすり替わっていたというものです。詳細は、こちらの記事にしてあります。
天皇が別人にすり替わっていたなんて、バカバカしい陰謀論と一蹴する手もあります。それが妄想なら、バカバカしい陰謀論と切り捨てるのが妥当でしょう。
しかし当時、江戸でもなく、大阪への奠都まで検討されていました。
※「遷都」ではなく、「奠都(てんと)」という言葉を使う理由については、上掲記事を参照ください。
そうなると上に挙げられている「1」と「4」の理由は、全てただのこじつけということになります(「2」も、京都はそこまで焼けてないだろうという気がしてならない)。さらに疑いの目をもって眺めてみれば、「3」の妥当性も疑わしくなってきます。
「京都では旧来の公家勢力の影響を受けて新しい日本が築けない」というのは、ただただ天皇を公家から引き離したいだけではないかという疑念が湧いてきます。
何故?別人(南朝の末裔)にすり替わっていたから???
この仮説は、明治になってから、滅亡したはずの南朝が正統とされる「南朝正統論」が盛んに主張されるようになったこととも符合します。
北朝に楯突き、南朝に命を捧げた楠木正成像が皇居前にあることにも、説明がつきます。
天皇が南朝の末裔である別人にすり替わっていたから、大阪でも何でもいいから、とにかく本物の天皇を知っている公家から、天皇を引き離したかったというのは、辻褄が合います。江戸行幸を執り行って、江戸に到着したその日のうちに江戸城を「東京城」と改称し、そのまま居座るというようなドタバタな状況も理解できます。
逆に、明治天皇が南朝の末裔である別人にすり替わっていたという説を「陰謀論」として切り捨てる方々は、例えば、以下のようなことについても、よく考えられてみてはどうかと思います。
・東京奠都の前に大阪奠都まで検討されていた理由
・明治になって「南北朝正閏論」の議論が活発になった背景
・皇居前に楠木正成像が鎮座しているワケ
無思考はいけません。
なんにしても、雑誌に書いてあることを鵜呑みにしているようではダメです。メディアが言っていることは、自分が考えるための素材として使うだけです。それらを組み合わせて、何が真実かを考えるのは、自分自身である必要があります。
「所詮、昔の話だし、どうでもいいじゃないか」
そう思われます?いえ、それは絶対に違います。
歴史は、現在に繋がっています。この類の問題は、私たちが住んでいる社会、今の枠組みを考えるうえで、けっして避けることができない重大なテーマと捉えていなければなりません。
無思考は仕方ありません。誰にでも無思考はあります。当然、私だって無思考だらけです。思考なんて、限られたところにしかできないのです。
そうだとしたら、せめてその限られた思考は、考えるべき重大なテーマに向けるべきでしょう。小さな目の前のことばかりに意識を向けてしまったら、それを操っている人たちに、簡単に絡めとられてしまうことでしょう。
歴史のなかで築き上げられてきた国家なんて仕組みは、万能じゃありません。私たちは、その限界を受け入れたうえで、道を切り拓いて生きていきたいものです。
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