【2020】よもぎ的読めてよかったnoteと、今年のかんがえごと
臆面もなく【2020】なんぞ題名につけては鼻息荒く書き出しています。昨年こんな記事は書いていないし、来年書くかもわからないシリーズ的記事を今年は書いてみましょう。よろしくお願いします。
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よもぎ的読めてよかった2020年のnote
こういう暮らしが好きで好きでしかたないな。わたしはずっと暮らしていきたいだけなのだ。
青い朝こときょんちゃんのエッセイです。こんなにも等身大の文章は久しく、読後感が心地よかったのを感覚ごとおぼえています。そんな飾らない生活をいつもみせてくれてありがとう。ツイートからみえる生活も最高だ!
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食うか食われるか、一触即発のぎりぎりな状態に耐えかねて、とてもこのまま部屋にはいられないと思った。文庫本二冊とハンカチとティッシュ、ちいさく折りたたんだ千円札二枚を入れたポシェットを下げ、コートのポケットに携帯とイヤホンと家の鍵を突っ込んで、逃げるようにして部屋を出た。
優香さんのすごいところは、だめなときも文章にしたためるところです(というか、だめなときの文章をけっこう書いてくれるから、それがすきになってしまった)。文章からみえる、「私の孤独」を自分で抱きしめる優香さんの姿に、いつも力をもらっています。ありがとうございます。
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お笑いが世界を救うかは知らない。でもお笑いは私を救う。
お笑いのいいところは「みんなが笑顔に変わるから」じゃない。お笑いで世界は平和にならない。
僕はちゃこさんの文章と出逢ってから早二年が経とうとしているのですが、こういう更新頻度が高い書き手の方に、今一度感謝の意を示したく。
朝電車のなかで開くタイムラインにちゃこさんの文章が転がっていることを「日常」だと勘違いしている自分がたまにいて、自分を殴りたくなる。
だって変だと思う。僕は女でも母でもライターでもないのに、こんなにも筆一本で惹かれてしまうなんて。来年もちゃこさんのペースで書かれた文章が読めれば、そんなしあわせなことはないと思っています。
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さて、これを書いている今はもう、やるせなさなどどこかにいってしまっている。
単純な人間でよかった とつくづく思う。
どれだけ時間がかかっても、自分の機嫌を人に押し付けるようなことはしたくないのだ。
旦さんとの出逢いはこの文章だったのですが、「あっ、この人ぜったいに飲食と文章がすきな人だ」と、つよい確信を抱きました。五感を大切にして生きているのが目に浮かぶます。2020下半期、出逢えてよかったと思わされる文章をありがとうございました。
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こんなことして何になるんだろう。
やらなくても良いことなのに。
時間を割いて、労力を使って、誰に向けるでもない言葉を書き続けている。
タイトルがすべてだと思います。
い~のさんの文体をかんがえると、直接的な内容を指しているこの文章を紹介することをおそらく本人は嫌がるかもしれませんが、僕はこの文章を読めてよかったです。長くネットをつづけてしまうと、こういう想いを忘れてしまうから。今年は音声配信もたくさん一緒にできてたのしかったです。
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でも「名前のない感情」を書いていたい。
言葉に上手くできないけど、なんか込み上げてくる感情をどうにか誰かに喋りたい。
喜怒哀楽の隙間の感情を絶対に失いたくない。
最も知りたいのは、言葉にして言いようもない「喜怒哀楽の隙間の感情」の理由なんだと思う。
だからわたしはその感情をひとくくりにせずにどこまでも分解して、その感情の意味を知りたい。
moonちゃんは、書いているものがずっと変わっていなくて。
それを本人がどう思うかはわからないのだけど、書いている姿勢や態度が変わっていないという意味で、書く自分像みたいなものが一貫しているのが、同世代として誇らしいと毎度思います。僕の目に映るmoonちゃんの姿は潔くて、かっこいい。これからもmoonちゃんの文章、みせてほしいです。
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私は昨日のこともすぐに忘れてしまう。物事の時系列とか、あの時誰に何を言われてどういう気持ちだったとか、旅先で美味しかったものって何だったかなとか、本当にすぐに忘れてしまう。だから日記は「あの時なにしてたっけ」「あの日何考えてたんだっけ」を知ることができて便利だ。
誰になにを言われるわけでもなく書いている文章がだいすきです、僕。
お茶さんの文章を読んでいると、今これを読んでいる自分は世界にひとりなんじゃないかと思うほどの静けさを感じます。ぜったいお茶さんの人生と僕の人生って交点がないのに、お茶さんの文章は世界と自分をひっぱがしてくれる感覚があって、それがどこか落ち着く。
それってたぶんお茶さんの文章に、「勝手に書いている感」があるからと思っています。
引用した記事はお茶さんの日記が並べられていて(親しみしか感じられない内容)、書く対象を問わないお茶さんの姿勢が垣間みえました。今年もたくさん書いてくださり、ありがとうございました。
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今年のかんがえごと「絶望は安らぎ」
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「わたしたち、今年はがんばったよね」
師走という二文字がふさわしいほどの冷え込みに包まれ、すこんと晴れた果てのない青空の下、友人は自分に言い聞かるように僕に向かってことばを投げた。
その文は目的語が抜けていたから、僕が英語のグラマー講師であれば目的語を明示するよう赤を入れて返却すべきだった。僕自身もがんばったよな、と、友人が自分に言い聞かせたふうに、しかし自分でも感じていた。
今年なにをがんばったかを問われる筆記試験があれば、生活、仕事、勉強、恋愛、と、ありふれた熟語を解答用紙に埋めるほかなく、その箇条書きの寄せ集めがひいては人生であり、「わたしたち」が今年がんばったものという箱の中身になるんである。
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一年半前フリーターだったとき、西村賢太の『苦役列車』を読むことができなかった。社会的地位がない当時の僕が読むにはあまりにも絶望的で。
内容は、埠頭の冷凍倉庫の日雇い仕事で生計を立てる19歳の「貫太」の堕落した生活やその日々を、まさに”苦役”と見立てた救いようのない物語である。「貫太」の劣等感や歪んだプライドから生じる粗野な言動が、卑屈で、下品で、不憫であり、当時フリーターの僕は「貫太」の底辺さが自分のように思えてしまって、しかし全く頁をめくることができなかった。
それが、今年手にとってみるとすんなり読めた。
すんなりは少しばかりうそで、そのときもかなり絶望しながら読み進めた。でも不思議と、心地よさも感じていたのはたしかだ。
それはきっと、フリーターの身分から卒業した事実から生まれる心地よさではなく、絶望そのものに、より一層惹かれた一年だったからだ。
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絶望はある種の安らぎだと思う。
それ以上、堕ちるところがないから。
這い上がるしか退路がないところがよいのだ。這い上がるのも当然一苦労ではあるが、絶望でみちあふれた世界──それ以上逃げたり堕ちたりすることもままならない──というのは、僕をわなわな奮い立たせ、同時にひどく安心させる。
だから今年は絶望的な小説を読むことが多かった。
絶望の大海に己を投影し、脱出できないほどひたりつくせば、疫病がはびこる不条理な現実世界から僕を遠い場所につれていってくれた。逃避のように思えるけど、こうすることしかできなかった。
余白のある時間をつくってしまえば、うしなったものばかり数えてしまっていた。同じ時間を共有して過ごせた人、知らない地に足を踏み入れるまちどおしかった予定、仕事の成り行き。
それでも生きていかなければいけないから、「わたしたち」は現実と向き合った。今までの日常と不条理な世界の端と端を繋ぎ合わせるようにして。
結局のところ、私たちはみんな喪失の過程を生きているのだ。貪欲に得ては、次々にうしなう。
──江國香織『泳ぐのに、安全でも適切でもありません』
うしなったものを「返せ」とは言わない。その代わり、今いる絶望から手を伸ばしたその先だけは守らせてほしい。今ある半径5メートル圏内の、なんのへんてつもない、ふつうの日常だけは。
それだけを願って、この年を来年に託すのです。
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結び
愛を渡すのが下手でぶしつけ。つくづくそう思います。
だから年末特別号的に、すきな記事を並べてまとめて想いを伝えてしまう。挨拶まわりをして今年を納めるみたいに。
僕は年末の焦燥感がどうしてもにがてです。その点大晦日となると、あの日のおつかれさん的な空気感に包まれるのはとてもすき。数時間で新年を迎えるのに、もうあれこれ考えてもしょうがないから。
だから大晦日までの年末はこころの調整がむずかしいのですが、よもぎとしては満足のいく文章が書けました。今年の目標は「恩返しをする」でしたので。半径5メートルしか大事にできない質(たち)なのですが、どうも手が広く浅く伸びないためこれでよしとします。
今年一年間、ありがとうございました。来年もよろしくお願いします。
よいお年を(よいお年をってあいさつだいすき)!
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