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傷つけない笑いが面白いお笑いなのか。


取り急ぎ、書く。

M-1グランプリは観たか。観てたら読んでほしい。全部観てなくもいい。
ぺこぱという芸人の漫才だけでも観てから読んでほしい。


彗星の如く現れた7組の決勝初出場者。決勝経験者はかまいたちと見取り図のみ。3年連続準優勝の和牛ですら蹴落とされた2019年。みんな面白かったと思う。アンタッチャブルが復活した年のM-1でミルクボーイが史上最高得点を更新したのは皮肉なのか、それでも優勝して伝説になった。かまいたちが1本目にUFJのネタをぶつけてくるのはガチ感が滲み出ていてたまらなかった。和牛は人気投票であっても決勝に来てくれることを俺はやっぱり望んでいた。最終決戦に進めなくともすゑひろがりずが会社で流行りそうなインパクトだった。からし蓮根がやっと日の目を見られて安心した。インディアンスがネタを飛ばしてしまって悔いが残ったのも今後の糧になるからこれはこれでよかった。ニューヨークだってオズワルドだってみんなそれぞれの形をもって漫才をしていた。格好良かった。お笑い芸人は至高だ。人を笑顔にする仕事。めちゃくちゃ格好良いじゃん。全員もれなく。全出場者が最高だ。


気になったのがぺこぱだった。

SNSの評価をざっとまとめると「ボケを否定するのではなく、ツッコミが内省することで誰も傷つけることなくボケを肯定するという新たな漫才」を確立したとして称されている。

たしかにその通りだ。
M-1グランプリが回を重ねるにつれて漫才の形は増えていった。近年で言えばテンポの早い霜降り明星、ミキ、トレンディエンジェル。何をやっているかわからないゲームのような状況が一周して面白いジャルジャル、トムブラウン。それでも王道べしゃりの道を進んだ銀シャリ、かまいたち。
みなそれぞれの”形”がある。

松ちゃんはぺこぱを”ノリツッコまない”と評した。

今年の和牛はツッコミをしながらキャラクターがボケにも転じる川西だったが、ぺこぱもツッコミを入れているようでノリツッコまないという一種のボケにも転じていた。つまり、ボケに待ったなし。ボケを傷つけない。

それが今回、ウケた。
想像以上に新しい漫才は令和の時代にフィットし、まるで傷つけない笑いが至高であると、各方面でいわれている現状に反吐が出そうになっている。

このウケ方に疑問が生じてしまうのは、笑いとしてのウケではなく時代への適合としてウケている点だ。誰も傷つけない笑いって、そんなに正義か? 


6巡目の見取り図はどうだろう。ネタ中のボケを挙げてみる。

「EXILEの41軍みたいな顔」「生徒に手を出すタイプの数学教師」「群馬あたりの伝説ホスト」「あおり運転の申し子」「激弱のバチェラー」

見た目をいじるボケの応酬である。極めつけは「女のすっぴんみたいな顔しやがって、なでしこジャパンのボランチか」だ。じゃあ見取り図がこうやって人様をいじったから最終決戦にいけなかったのか?違うでしょう。

俺は見取り図も、ぺこぱも、面白かったと思う。傷をつけようがつけまいが面白ければいい。だってM-1グランプリの審査基準は”とにかくおもしろい漫才”だからだ。多様性は認められていい。元号が変わるのだからあるべきなんだろう。それは決勝初出場が7組もいたことが証明している。

それじゃぺこぱは今後、「誰も傷つけない笑い」だから売れていくの?ミルクボーイは傷つけないから優勝したの?かまいたちは互いを咎め合ったよ?

全てが、てんで違う。面白かったからだ。

面白くなかったら最終決戦で2本目の漫才を披露してない。ぺこぱは傷つけない漫才をしたいからM-1グランプリに出たんじゃない。「傷つけなさ」じゃなく、「面白さ」を評価されたくて出場したんだ。7人の審査員に評価されたから和牛を蹴落としたんだ。「傷つけなさ」が評価される大会ならカミナリは最初から引っ叩いてない。アインシュタインは最初からブサイクをいじらない。ギャロップは最初からハゲをいじらない。

ぺこぱは「面白さ」が評価されて最終決戦に駒を進めた。それだけだ。


時代の流れが顕著に出た大会だったと思う。お笑いは進化していい。誰も傷つけずにお笑いは成立する。しかしそのせいで誰も傷つけないお笑いが全否定されるならM-1グランプリは「優しい漫才をしなければならない大会」になってしまう。それはもうそれぞれの漫才の形を歪みかねない。お笑い芸人は社会風刺者じゃない。お笑いにジャーナリズムはいらない。面白いか、面白くないか。忖度もコンプライアンスも知らない。以上。

とはいっても、これが”令和の漫才”らしい。

時は戻せない。


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