栗原健太という広島の4番がいたこと

8月6日、たったひとつだけ、毎年かならずしていることがありました。
それは、広島東洋カープの元4番、栗原健太のブログを読むことです。

記憶が確かならば、2008年からその習慣はつづいていたはずです。
カープはチームとしては低迷していたけれど、マエケン・前田智徳・梵・東出・石原なんかとならび、「いつか必ず…」と思わせてくれる選手のひとりが、いや筆頭が栗原健太でした。

栗原健太の全盛期は、私にとっては、2009年にあった野球の世界大会・WBCだと思います。そのWBC、栗原健太は日本代表の選考に漏れるのですが、アメリカラウンドで4番の村田修一が怪我するやいなや、監督の原辰徳はまっさきに「栗原健太を呼んでくれ!」と電話したのだそうです。いきなり呼ばれたわけですし、けっきょく栗原健太はアメリカで結果を残せなかったけれど、広島の4番がアメリカの舞台に立った自体、私にとっては意味があるものでした。

栗原健太は、毎年必ず、8月6日にはブログを更新してくれていました。弱かったカープを支え続けるのは私たちが思う以上に体に負担をかけていたと思います。怪我をしながら、痛みを押して出場していたこともあったそうです。やがて試合に出られなくなり、カープを離れ、広島を離れても、毎年必ず、8月6日にはブログを更新してくれていました。1年に1回、8月6日にしか更新しない日もあったほどです。

2008年08月06日(水)
8月6日。

2009年08月06日(木)
今年の8月6日。

2010年08月08日(日)
ありがとう。

2011年08月06日(土)
8月6日伝えること。

2012年08月06日(月)
東北に伝わること。

2013年08月06日(火)
今日、僕が思ったこと。

2014年08月06日(水)
1人でも多く。

2015年08月06日(木)
心に実りを。

2016年08月06日(土)
知ることで見えてくること。

2017年08月06日(日)
言葉なくとも伝わること。

2018年08月06日(月)
収めるもの。

いまみたら、2010年だけは8月8日ですね。
それはともかく。

私にとって、8月6日を振り返ることは、栗原健太を振り返ることでした。彼の勝負強い打棒、畠山や森野なんていう相手の主砲にスリーランを打たれたら、すかさずスリーランを打ち返す、広島の上空に舞う、たかい放物線を追うことでした。広島市民球場だったころも、マツダズームズームスタジアムになってからも、私が初めて原爆ドームを観に行ったとき、こんな近くに野球場があるのだと驚き、聞こえてくる歓声に胸を躍らせ、「広島に球団ができる」ということが何もなくなった広島市民にとって希望だったと知ったとき、そんな瞬間と8月6日はともにありました。

2018年をさいごに、栗原健太のブログが更新されていないことは、いまとなっては、どうでもいいんです。ただ私は、それであれば2019年、代わりにブログを書くべきだったと思います。いまさらですが、年に1回、8月6日だけは、代わりになれるか分からないけれど、ブログを書こうと、そう決めました。

被爆アオギリのことを知ったのも、アオギリの歌をうたえるようになったのも、「生ましめんかな」という詩を教えてもらったのも、ぜんぶ栗原健太のおかげです。ありがとう。

「生ましめんかな」
https://bngkkn.hiroshima-u.ac.jp/database/KURIHARA/umashimenkana.html

私はこの詩が大好きです。

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