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おこらない

どうも髪を短く切り過ぎたみたいだ。
電車の中で目があった小さな子どもが、ふいっと目を逸らしたりするし、何しろ首筋が寒い。耳も冷たい。
もう何十年も生きているのに、こんなことの加減を測り損なうなんて。
長く生きていると言えば、この頃あまり怒らなくなった。スパイスカレーも欲しなくなった。加齢という見えざる力は、こんなところにも作用する。
少し前までは、すぐに怒ってばかりいた。今だってついこわい声を出したりしてしまうけれど、前のようには怒らないし、苛立ちもしない。まあ、時には不平を述べるし相手を詰ってしまうこともある。でも明らかに以前より、わたしはおとなしくなった。

年齢によって、内分泌系や脳や、いろいろなものが変化する。しかしこれは、加齢に反比例して怒りの原因物質が下降の一途をたどる、というような、わかりやすいものでもなさそうだ。年をとってむしろ怒りっぽくなったりするということもよく見聞きする。おそらくは抱えているものごとの理不尽さや、その自覚が、ひとを怒らせる。どんな境遇でも、それを絶対評価でとらえるならば、つまりは人と比べずに、自分に相応の環境だと納得がいくならば、怒らない。あとは必要な睡眠がとれるかどうかも関係している。たぶん。

あらゆる言葉は、自分に返ってくる。
どうもそう感じてしまうのも、この頃怒りにくい理由の一つだ。
これまでは容赦なく発していた言葉の一つひとつを、なぜかすぐさま飲み込み、自ら反芻してしまう。鋭い批判の矛先は、相手に刺さったかを確かめる間もなく己が胸に突き立てられる。これがいちいち痛い。

母とふたり暮らしになり、5か月。
「とにかく、あなたはまだ90歳のおばあさんじゃないんだから、自分のことばっかりじゃなくて」
と言いかけて、
「自分のことばかりなのはわたしか
もう、こんな年なのに」
と思う。
「タオルくらい自分で取って
そこにあるよ」
と言ってしまったあとの苦さ。そうタオルくらい、取ってあげればいいのだ。あーあ。
理不尽な境遇におかれているとは思わない。むしろ自分はとても恵まれていると思う。あれもこれもぜいたくで、ありがたい。であるのに、一つだけ、目の前の母が老いていくことだけが、受け容れられずにいる。

あなたのおみとり
という映画を観たのは、昨秋の終わり頃。思うことはたくさんあった。人をみとる、という経験をしたひとはどのくらいいるのだろうか。それを淡々としずかに、しかし確実に見せてくれる映画だ、とか、このドキュメンタリー映画の主な出演者である監督のお母さんの言葉が、どれもとてもいいから観ることをお勧めする、とか、映画の感想としては如何様にも書けるしそれは本当なのだが、最も身につまされたところはそれらではない。

端的に書くなら、高齢の親と中年の子どものありようについて。
即ち、おかあさんは頑張っていて、中年の子どもはいつもブーブー言っている。ああうちと同じだ、と心の内で呟く。
よい映画を作った人をわるく言うつもりはないが、映画の中で息子たる監督はすぐに不平を言う。ドキュメンタリー映画の監督業の何たるかなど、わたしが知り得るはずもないが、総じて中年期は抱えているものが多い。抱えるもの背負うものがいつも気を張らせている。張っている気持ちは時にぴりぴりばちんと破ける。怒ったり、苛立ったり。

而して、いまわたしはめっきりおとなしくなった。大きな抱えものがひとつ失せた。そして、年をとった。
わたしが受け容れられずにいるのは、自分自身の老いであるのかも知れない。赤いりんごの、重さひとつ。



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さや
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