見出し画像

ヨガは「特別な何か」ではない

日常生活から離れてどこか特別な場所に行ったり、師と崇められるような著名な先生のもとに教えを乞いに行ったり、何者かになれるのではないかと自分に期待をして世界中を飛び回っても、自分の日常生活から離れたヨガは私にとってヨガではないことに気が付く。

日常生活からかけ離れたヨガは、「特別な何か」とか「特別なイベントや行事」と化し、その特別感を味わうためだけのものとなってしまう。

大概、その特別感を味わうのには「賞味期限」が決まっていて、その賞味期限を軸に物事が進んでいくものだから、とりあえず期限内に飲み込んでしまおうというこなし感やしのぎ感が出てきて、それを飲み込みさえすれば、

あ~!よかったね\(^O^)/

ふ~!なんとか終わった(^.^)/~~~

は~!もうお腹いっぱい~(*´▽`*)

で満足してしまう。

でも本当に必要なことは、賞味期限なんて関係なくて、与えられたものを一つ一つ丁寧に手に取り、試してみて何度も何度も咀嚼して自分の身体になじませ、沁み込ませて血や肉となるまでそれを続けることだ。

ヨガとともに生きるのであれば、自分の生活とともに生きるということも忘れてはいけなくて、毎日、洗濯をして清潔な衣服を着て、食事をして栄養を採り、掃除をして住まいを整える。
この生活するうえで必要な基礎である衣食住とヨガを切り離してしまうと、すぐにではないがゆっくり確実にじわりじわりと心身のバランスが崩れていくのを感じた。

私のヨガは日常生活の中にある。日常生活のほんの一部にヨガがある。ただそれだけ。ヨガが主体になることはないけれど、ともに生きていくバディ、相棒、仲間といったところだ。

究極的には、ヨガはヨガという概念でしかないのかもしれない。人間がつけたただの名前。毎日、衣食住を整え、心身ともに穏やかな「私」を整える。その方法の一つがヨガなのだ。

だから、ヨガの道の歩みが亀のようにノロノロと遅くても私はもう気にしない。亀でもいいから、ヨガと共に生きていきたい。

当noteをお読みいただきありがとうございます。noteの「サポート」とは、クリエイター(私)の活動を金銭的に応援(サポート)できる機能です。金額は100円~。サポートしていただいた暁には、喜びのあまり記事の更新頻度が上がり、内容がより濃厚なものとなることでしょう。Namaste