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掌編小説「10メートル1.42秒」900字

 水は上から下に落ちていく。地球上では万物が持つ避けがたい引力のことわり

 地面を足で蹴ってくうを駆け、鉄の棒を支点に頭上に脚を通過させる。初めて重力に抵抗したのは、いま思えば逆上さかあがりだったかもしれない。僕は逆上がりが苦手だった。

 いや、苦手どころか授業中にできたことは一度もなかった。そのくせ中学生になって戯れで鉄棒を握ってみたら簡単にできた覚えがある。結局のところ、あれは何を測られていたのだろう。もっと大きくなればできることを、小学生という発育に差がある時期にさせられて、ただ不用意に劣等感を植え付けられるだけの時間だった。

 挙げ句「がんばれ〜」などと囃される。他人からの応援を素直に受け取れなくなったのはあの頃からだ。

 足も遅かった。努力の方向性もわからずに、ただ走るだけの作業。子どもの頃に「足が早い」と言われた人だけが先へ進める足切りの儀式か。

 拗ねた思いを重ねるたびに、僕は滝を見に行った。家の近所、10分ほど山を分け入ればたどり着くところに、地元では有名な滝があった。ガイドのパネルによれば高さは10メートル。幅は30センチ程度で大きいわけではないけど、絶え間なく水が流れ落ちていく。

 この滝を見るのが好きだった。滝口から滝壺へ、上から下へ、誰の目にも平等に、落ちていく水。だれも避けることのできない力によって落ちていく。でもその落ち方は、一粒ひとつぶ違って見えた。

 あの水のように僕は落ちてみたくなった。誰にも囃されず、誰にも憐れみを向けられることなく、落ちていく一瞬を楽しみたかった。抗えない力に身を任せながら、人生に抵抗してみたかった。

「10メートルのタイムは?」

「だいたい1.42秒。それは誰でも平等に」

 僕は今から10メートルを1.42秒かけて落下する。でも、ただでは落ちない。眼下にはあの滝壺のように水が溢れている。あの滝を思い出せ。自由に、優雅に落ちるんだ。

 僕は飛び込み板に足をかけ、勢いよく跳ね降りた。



 ジュっっっ…

「決まった〜! ノースプラッシュ! 前宙返り2回半2回ひねり伸型!」

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