掌編小説「自分の足で」1500字
あの子ったら近頃ますます聡明になっているんですの。頬はほっそりとして凛々しく、目の輝きも一段と鋭くなって、書物を読む手にも力が入っているように見えますわ。学者様になる日も近いのではないかしら。
私がここに来て、もう六度も雪解けを見送っていますけれど、その間一度も、あの子は雪を見に縁側に出てくることはありませんでしたわ。私もそうね、縁側にいる時間よりもあの子といる時間の方が長くなっているかしら。
そうそう、私、ご主人様とお医者様が話をしているのを聴いていましたの。「もう長くないだろう」って。それを聴いたとき、私は嬉しくって思わず「にゃあ」と叫んでしまいましたの。でもご主人様は私の姿を認めて、唇に人差し指を当てながら「この話はマリコには内緒だよ」って嗜めましたわ。
私はそのとき、まあ、失礼しちゃうわって、口には出さないけれどそう思って、ふいってご主人様から首を逸らしましたの。ご主人様が驚かせようとしている事ぐらいわかりますわ。あの子に告げ口なんかしませんわよ。それにしても心が躍りますわ。あの子の不自由な生活はもう長くないだなんて。
「お父さん、何度言ったらわかるの? こんなものではダメよ。なんでもしてくれるって言ったじゃない。早くイングランドから取り寄せてちょうだい!」
あの子はますます元気になって、ご主人様と言い争うことも多くなってきましたの。ご主人様を困らせるのは、私の専売特許だったはずですのに。
最近のあの子は植物の知識に夢中で、海外の論文を読むほどなの。でもあの子がいつも私に語ってくれるのは、10年も20年も先のこと。あの子はそれこそ世界中を旅して、天文の知識も身につけて、新しい銀河を発見することを夢見ているの。
いつもいつも「私には時間がない」って言うのよ。あの子、人間の年齢でまだ十にもなっていないのに。
「お父さん、私の体のことぐらい、私が一番わかっています。そんな薬ではダメなの。お願いですから、このお医者様にはお引き取りいただいて」
私が部屋に入ったとき、お医者様はあの子に細長い棒を向けていました。先端に針がある形状から、私はそれが注射器であることを理解しましたわ。
「マリコ、お父さんは…」
私はそのとき、ご主人様がまだあの子の意見に耳を傾けていない事に心底呆れてしまいましたの。
「何度も言っているじゃない。イングランドから薬草の知識を持ったドゥルイドを呼び寄せてって!」
それでもヤブ医者はあの子の手を取って、無理やり細い針を刺そうとするものですから、私はついに頭に来て、飛び上がってそのヤブ医者から注射器をふんだくってやりましたわ。驚くご主人様に向かって、鼻息を荒げて睨みつけてやりましたら、ついにご主人様は言いましたの。
「わかったよ。君の言うとおりにしよう」
ひと月ほどが過ぎた頃でしょうか、縁側のある私たちの家に黒い見慣れない衣装を着たご婦人がいらしたのは。ご主人様と連れ立っていらしたかと思うと、すぐにあの子の部屋に入って行きました。もちろん私も部屋の中まで付いて行きましたわ。
そしたらあの子とそのご婦人は二、三言葉を交わしただけですぐにお互いを理解して、ご婦人は彼女の求める薬を調合し始めましたわ。あの子は自らの知識と頭脳でもって、自分の病を治す効果を突き止めたのよ。
ご婦人がいらしたのは一週間にも満たなかったのではないかしら。あの子は見る間に元気になって…ついに、ついによ。自分の足で立って、部屋の外に、我が家の縁側まで歩き出ることができましたのよ。
でも、あの子にとって自分の体のことなど、もう些末なことなのでしょうね。この一歩から、あの子はもっと遠くへと歩いて行くんですもの。