書くことと夏の神話
†表現の欲求と文章
親しい人と他愛のない会話ができているときにはこうして文章を書く必要などないのだ。人との会話は、表現したいという欲求をもっとも率直にたしかな手触りで満たすことができるからだ。それに比べて文章の回りくどさよ。せっかく時間をかけて形にしてもだれにも読まれないかもしれない。伝えたいことは伝わらないかもしれない(そもそも伝えたいことが自分でも分かっていない可能性もある)。けれど/だから私たちは文章を書くのだ。
†夏の神話
アスファルトで干からびているミミズを見た。夏のあるある。夜なんかに歩いていると道を横切るヌルヌルと元気な彼らがいてゴールしないと大変だぞと励ます。昼間のミイラは夢半ばで散っていった挑戦者たちの成れの果て。
ミミズは漢字で変換すると蚯蚓と知る。字面に力がある。どことなく龍をイメージする。虹という漢字は龍と関係すると昔辞書で読んだ覚えがある。なのでミミズと龍と虹が頭のなかでつながっている。干からびた蚯蚓、昇天を祝福する驟雨、魂は龍に姿を変えて虹となって夏の空に消える。乾と湿、地と天、卑と貴、醜と美。
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