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矢田川橋公園
別に終活してるわけでも、死を予感しているつもりもないのですけど、生まれ育った街を再確認してきました。
住んでいた家から数分のところの河川敷の公園です。
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ヘッダ画像のブランコと柵は、たぶん当時のままではないかと思います。この柵は元々は無かったのですが、僕らがブランコから「立飛び」で距離を競ってたのでそれをさせないように作られました。そんなの絶対に間違ってると当時でも思いました。すでにこの時代から「危険なものには蓋をする」風潮がありました。そんなもんは自己責任です。
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この公園が整備されたのは、私が3、4歳の頃だったと思います。もともとは堤防しか無い、治水もちゃんとできていない川でしたが、ここの河川敷に立派な公園が作られたのです。
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このあたりで一緒に遊んでいた弟が川に落ちて溺れました。私は5歳位で弟が3歳だったと思います。バチャバチャと流され続ける弟をみながら、私は親を呼びに行こうとしたのですが、たまたま近くにいた自衛官の人が川に入って助けてくれました。
水深はたったの30センチくらいなのですが、溺れるってこういうことなのですよね。
あの人がいなかったら弟は死んでいたと思いますし、自分が助けようとしたら自分も死んでいたと思います。でも私はズル賢いので、決して自分で入ろうとはしませんでした。助けられるとはまったく思えなかったからです。
この川は、当時はせとものの瀬戸焼の窯業産地から流れ出る泥水で、真っ白でした。川原には真っ白い泥が堆積していて、ある意味綺麗でしたが、川はまったく生き物が住めるようなところではありませんでしたが、いまではこんなにきれいになって、鮎や鰻も確認できるほどのようです。
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高低差とか距離感とかが当時とまるで違います。もっと堤防は高かった印象ですし、公園内の段差もかなりあったはず。
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住んでいた家は、50年以上経過した今でもほぼそのまま残っています。当時売却した先がたまたま天理教の方で、分教所?にするという話は聞いていましたが、そのとおり今でもありました。
真ん中に見えているエアコン室外機の下の部分が五右衛門風呂でした。父方は材木屋だったので、ここはもともと材木置場だったのです。左側にはそれがまだ残っていて、それを炊いて風呂に入っていました。
風呂炊きは子どもの仕事です。水は井戸水で、住んでいたときはまだ下水もありませんでした。
生まれ育った街(市)は私は大嫌いです。今でも嫌いです。でも、暮らしてたエリアはやっぱり懐かしい。特にこの公園は今も昔も大好きです。そして今でも風通しのいいところが好きで、そうではないところには住むことができないのは、この公園のせいだと思います。