さいたま国際芸術祭2023についての備忘録
さいたま国際芸術祭2023についての感想
さいたま国際芸術祭2023で得られたことの備忘録を記述する。ここでは作品を作者の意図に沿って解き明かそうとするのではなく、私自身が感じたことを記述する。そのため、作品の解説ではない。また、読み手を想像して書くというよりは、書きながら何か発見できたらなという下心付きの自分勝手な文章になる。
Twitterで収まり切れない長文となってしまったので、noteに記述する(そもそもアートアカウントを所有していないのだが)。
参加したのは12/7(木)。展示内容的に人が少ない平日を狙った。この日はMr.Childrenのライブもあり、埼玉に帰省していた。ライブもめちゃくちゃよかったが関係ないので割愛する。
展示は語彙力消失だがめちゃくちゃよかった。遠くてももっと早くから行っていれば何度も通えたのに、と後悔せざるをえない。正直単体の建物の展示なら越後妻有から瀬戸内まであらゆる芸術祭の中でトップだった。因みに次によかったのは最後の教室だ。(地中美術館など常設展示は除く)
前置きはこれくらいにして備忘録へ入ろう。
虚と実
さいたま国際芸術祭は今年で3回目。1回目は参加したが、コロナの影響で、2回目はよくわからず終わった。
今回、アート系の人はどの程度見に来たかわからないが、結構TwitterではSCP好きにおすすめと書かれていたようだ。まあ確かにわからなくもないが、個人的には展示を見ている時、オープンワールドのゲームやTRPGをプレイしているように錯覚した。もしくは地獄のディズニーランドか?
芸術祭のテーマは「わたしたち」であった。しかし、私が感じたことは「虚実の境界」だ。
無理やりこの2つをつなげようとすればできなくはないが、備忘録なのでそこまでは行わない。
なぜそう感じたかというと、展示物なのかどうかわからないものが多かったからだ。
全体的に写真のように透明な壁で隔たれている。いけない場所もあれば、迷路のような構造になっているので別ルートで行けるところもあった。
仕組まれたモノたち
会場のいたるところによくわからないものが置いてある。クロネコヤマトが運んだものをそのまま置いてあったり、コーヒーが入っていたであろう容器、もう本当にごみにしか見えないものもあった。誰かが置いて行ったものだろうか。それともアートなのだろうか。
ここまではよくある展示ではあるのだが、非常に感銘を受けたのは、静物ではなく人物にも同様のことを適用していたからだ。人物であると仕組まれたものかどうかが本当にわからなくなる。
仕組まれた人は二種類いて、透明な壁のこちら側にいる人と透明な壁で挟まれた人たちである。前者は話しかけようとすればできるだろうが、後者はこちらから干渉できない。
まず、透明な壁のこちら側の人について記述する。一番仕組まれたものだとわかりやすかったのは清掃員だ。それのイデアみたいな恰好をしながら清掃をしていた。あんな格好、現代の清掃員ではほぼいないだろう。対して汚れてもいない透明な板を効率が悪そうな方法で拭いていた。
次に分かりやすかったのは六法全書みたいな本を持ちながら鑑賞してる人。おそらくこれも仕組まれているだろう。そんな分厚いものを持たなくても今は掌サイズの電子端末で事足りる。
一番微妙だったのが外の公園で逆立ちの練習をしている男性。インスタに目撃情報あり、同様の疑問を感じていた人がいたようだ。おそらく日本では人目を気にして公園ではやらず家でやる人が多いだろう。そのため、これも仕組まれていると思われる。
一体どこまでが役割を演じている人なのだろうか。
またこれらは気が付いた中での話である。もしかしたら気が付かない役割を演じていた人もいたかもしれない。溶け込みすぎてもう虚実が分からない。
次に透明な壁の反対側に生息していた人たちについて記述する。
管理室でモニターを見ている監視員や中で働いている人である。その人達は仕事をしていた。しかし、仕事をしているにはあまりにも他者から見られていていることを意識しながら役割を演じていたようにも見えた。仕組まれたものだっただろうか。あるいは見せることと仕事をすることの両方同じぐらい徹しているのか。
どちらにしろそちらの人たちは話しかけることができない。こちらからは干渉できない。ただの画面に映されたゲームの登場人物たちと大差がない。
しかし、例外もあった。透明の壁の反対側でピアノを弾いていた人をずっと見ていた。ある時、移動して展示物の1つ(だと思われる)の楽屋に入っていった。その時の行動は本当に一般的な行動であり、シナリオ通りなのかもさっぱりわからない。
靴からスリッパに履き替えて楽屋から出てくる際、こちらに気づいてびっくりしていた。この瞬間、ゲームをプレイしているという感覚は抜けた。なぜならびっくりする、ということまでは仕組まれていないはずで、ひどく現実味を帯びていたからである。
言葉で言い表しにくいが役割を演じるということには一種の固さや不自然感があった。それを感じなかったのは彼女がびっくりした時だけである。つまり感覚的になってしまうが、それ以外の時、上記で紹介した人すべては仕組まれた人たちだったと思われる。それを虚というなら虚であり、驚いた瞬間だけ実になったということなのだろう。
そもそも役割を演じる演じないは分ける必要なんてないはずだ。見つけたところで私が見ている光景は変わらない。なぜそこまで気になるのだろうか。アート作品かどうかであることは作者の意志が介在しているかだと私は思う。そうすると虚実の境界があいまいになるということは無関係の人すらすべてが作品になる。なんと大規模な作品だろうか。赤瀬川源平の宇宙の罐詰を想起させる。
スケーパー研究所
スケーパー研究所自体の展示も興味深かった。様々が資料の中にコンセプトとして唯識が載っていた。一如などの考え方に沿って行われたもののようだ。残念ながら写真撮影はNGだったし、時間がなく、さらっとみて終わった。残念。スケーパー研究所のレポートを売ってくれ。エディションナンバーを付けてくれるなら言い値で買おう。
ここにきて初めてスケーパーの意味を見たが、「虚構と現実のあいだを揺れ動く存在」らしい。ちゃんと意図を読み取れていてよかった。
「虚と実」と「唯識」の考え方には共通点はあるのだろうか。前者の境界線をなくす、ということだろうか。ここはもっと考えなければいけないところだと思う。
唯識については最近学ぶ機会があった(リンク)ので、虚実とその関係には直観的にリンクしているとわかった。言葉では表しづらいのだが…。
誰がため朗読する
最後に印象に残った作品を。私が入る前は誰もいない中、透明な壁の向こう側で朗読を一人でしている人がいた。観客がいない中、タガタメ演じているのだろうか。自分だろうか。それとも役割を全うしているだけだろうか。
たくさんの客が集まった中で行われる朗読。誰もいなくても読まれている。現象としてはこちら側が認識することしかできない(いわゆる一方通行系)テレビと同じようなものだと思うが、そうとは言い切れない、こちら側も影響できる気がした。
やはり劇などはそこまで見に行ったことはないけど、観客も一緒に作品を作っていくのだろう。
おわりに
20年前だろうか、私も幼少期にこの会場でピアノを演奏した。今でも大きいと感じるそのホールはもう終わりを迎え、壊される。
旧市民会館おおみや。会場の暗さも、椅子の質感も、空気の冷たさも、湿ってカビた匂いも、過去から今にかけて思い出を
どうもありがとう。
追記
思い返すことが多い展覧会だ。気がついたところを自分のために軽く追記したい。
下記写真は最初は気が付かず、単純に造形と配置が美しかったため、写真を撮った。今思えばこれもスケーパーだと思う。上には落ちる木なんてなかったし、繰り返すが角度や位置、造形が美しすぎる。後から木の葉もスケーパーになっていると知ったため、遅れたがおそらくこれもそう。
その場所で配られていた新聞には「本当の気付きには見逃してしまう可能性を残すことが不可欠」と書かれていた。何となく分かる。何となく分かるが言葉にはできない。まだまだ考えないといけない。