藝術と二次創作(後編)
前回ほぼツイッター(自称X)のように上記記事を書いた。もう少し深堀したかったので、追記で記述する。
Pixiv発の芸術家
ob
Pixivなど、二次創作を多く取り扱うSNS(?)を使うアーティストが出現したのはここ最近かと思っていた。しかし、obは遅くても2010年頃の当時高校生時代からpixivで同世代作家のキュレーションをしていたらしい。なんて行動力。
pixivを見ると、すべてオリジナルのようだ。しかし、エヴァっぽい制服を着ている少女など、サブカルチャーから多大な影響を受けていそうである。(というかいわゆるキャラクター絵画はそうだと思うが…)
また、最近のアーティストに出てきた傾向として、匿名(アカウント名)で活動することが言える。これはネットカルチャーであり、画家としてリアルで活躍し始めたというよりは、ネットから注目を集めるようになったからだろう。
アウトサイダーと二次創作
二次創作をする方は画家などいわゆる本業ではない場合が多い。さらに言うと美大など美術教養を受けていない方も多い。
私個人としては単純に絵がうまいなどのクオリティよりは、作り手が何を考えて、どういう想いで、どういう表現をしたか、という事をよく見ている。そのため、いわゆる*インサイドなアートである必要はないのだ。
*意味は「美術業界内」とする。つまり、美術教養を受けたものや影響を多大に受けている、もしくは美術的価値を考えて作成している作品などを形容する。
アウトサイダーアートの定義
一般的にアウトサイダーアートとは日本に限って障がい者が作成したアートのことを指すらしい。もちろん実際は、美術教養を受けていない作品全般である。ここでも、個人的には美術で染まっていない人が作成したアートのことを指したい。美術手帖の文言をそのまま引用すると「既存の美術教育や価値観の手垢が付いていないもの」とさせていただく。
手垢などまるで美術教養が良くないというような言い方であるが、そうではない。ただ、美術教養を受けるとクオリティが格段に違う作品が作成できる一方でどのように作成したらいいかという事がある程度決まってしまうことはあると思う。つまり目的が芸術的に評価されることになってしまう可能性がある。そうであるよりは民藝等と同様に、芸術として意図されていないところに無意識に生が宿りる。つまり意図しない生があると考える。
ちなみに私は障がい者が作成したアートもとても好きである*。理由は小さい頃の子どもの作品と同様に、他人に見られることよりも自分が描きたいものを描く傾向があるからである。このような生を描くことは中々容易ではない。
*差別的に感じられたら申し訳ない。そのような意図はない。
二次創作を芸術視することに対しての問題
ここまで論じたが、問題点もある。「二次創作としての活動を美術として鑑賞することは横取りのような行為なのではないか」ということだ(美術手帖より参照)。この行為は勝手に表現や作品と位置付けて一方的に批評の場においてしまうことになると思われる。
次回にも話すが、二次創作は萌えをどれだけ効率的に摂取できるか、という事が主題となっている(動物化するポストモダンより)。作品というまなざしで評価する人が多くなり、影響が強くなると、結局美術業界と変わらなくなってしまうかもしれない。萌えを回収するという事はとても大事なことなので、そのような作品も必要である。大事な文化だ。なくなってはいけない。
今後二次創作を美術的に評価する勢いが出てきたらそうなるかもしれず、面白さが欠けてしまうかもしれない。しかし、あまりそのような運動は見受けられないので心配ない。
私の場合、そこまで大々的にしている規模ではない事と、二次創作をされているクリエイターはポジティブな意見は喜んでいただくためそこまで気にしなくてよいのかもしれない。ただ、一般的な批評のように否定はなるべくしないように心がける。二次創作は批評の上に乗ることは本来想定されるべきではない。
最近私自身、かなりの過ちを犯した。創作者はその優れすぎていると言える感性を働かせて創作をしているので傷つきやすい。自分の意見を伝えることを優先してはいけない。否定とも取れるような事を話すのは今一切やめる。
おわりに
次回は動物化するポストモダンを元に、二次創作の方向性を論じる予定である。それにはいかに萌えを効率的に回収できるかということである。しかし、一次でも二次でも創作をする際にはバックグラウンドや考えが反映される。そのため、二次創作だからと言って評価が出来ないという事は絶対にないと私は思う。
村上隆などが二次元コンテンツとアートの境界線を曖昧するという大仕事をし、変わりつつある今日である。二次創作も同じ土俵に立つこともあるくらいな世の中であればうれしい。