ニーチェと永劫回帰と僕
僕はまだ哲学に興味を持つ前、ニーチェに憧れと希望を持っていた。僕の想像の中で、彼は詩的に美しい言葉を操り、世界を覆すような思想を展開していく孤高の英雄のような存在だった。特に日本において、彼は実存主義の象徴的存在で、その名声は中学生の私が惚れるには十分すぎるほどの魅力だった。
しかし、彼の思想を知れば知るほど、それはルサンチマン(ルサンチマン自体ニーチェの概念だが)にまみれた姿勢で大衆を見下した残酷なマッチョイズムなものに見えていった。
ニーチェの思想に、有名な永劫回帰というものがある。簡単に言えば「今生きているこの人生」は永遠に繰り返されると考える(態度)思想だ。僕はこれを知ったとき吐き気のようないい知れない嫌悪感を抱いた。こんな苦しみにまみれた最悪な人生を、永遠の牢獄に入れられたように、無限に繰り返すなんて悪夢としか思えなかった。しかし更にニーチェはこう言う。「その永劫回帰を受け入れて、超人になれ」
僕はその頃「実力も運の内、能力主義は正義か」で有名なマイケル・サンデルや不条理のカフカに傾倒していて、人生は完全に不平等なものだと思っていた。だから、こんな世界を永遠に生きることなんて、本当にキチガイのすることだと思った。そしてニーチェを嫌いになった。ニーチェのように恵まれた中流家庭に生まれて神童として博士になれる人生なら永劫回帰してもいいかも知れないが、自分のような人生なんて絶対に回帰したくないと思っていた。
それから数年が経った。偶然、私は永劫回帰についての本を手に取った。その時に再読して、僕は気づいた。これは、他者と比較するようなものではく、人生という無意味にしか思えないもの(永遠に回帰するなら一つ一つに意味など無いだろう)を、しかし受け入れて、立ち向かっていく勇気なのだと。無意味な人生の中で、たとえそれが無限に繰り返されるとしても、その無意味さを受け入れたうえで、立ち向かう勇気だったのだ。何の意味もないとわかっていても、それでも立ち上がるキチガイじみた勇気。人生の残酷さ、そして無意味さにさえも、「愛している」と告げられる勇気。それこそが、永劫回帰の真の意味であり、超人思想だったのだと知った。
ニーチェの功績は、人生に対して「無意味である」と告げたことにあるとされる。ペシミズムの代表的詩人、シオランは、人生の無意味さを受け入れた上で、何もせず楽に生きていけば良いと言う(なぜなら人生は無意味なのだから)。
けれどニーチェは違う。その無意味さの中ですら生きろと言う。彼はきっと、救いのない深い孤独と苦しみ、それこそ絶望とすら形容できないような世界の中で、ニヒリズムに陥ること無く、なおも「生」を肯定し、「超人」として生きようとしたのだと思う。その姿は、無謀だけれど、だからこそ美しさを感じる。
私には、「超人」になる勇気も気力もないけれど、彼が作り出したその思想には、やはりどこか英雄のような魅力を感じてしまう。それにシオランのように全てに絶望するだけでは退屈なときもある。ニーチェのように努力するのも時々は、悪くない。