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「露と答へて消えなましものを」――在原業平の覚悟と伏線回収〜授業準備記録②〜
高校で初めて古典を教える初心者の授業準備としての探究
今年から高校で古典を教えることになり、授業準備の一環として『伊勢物語』の「東下り」と「芥川」について探究を深めている。伊勢物語が歌物語であり、恋愛の歌が多いことから、高校生が古典を学ぶ上での興味深い視点となると感じた。藤原高子は本当に「露」を知らなかったのだろうかと問いを設定することで、生徒の探究心を刺激し、物語の面白さをより実感させることができるのではないか。
「露と答へて消えなましものを」――在原業平の覚悟と伏線回収
『伊勢物語』第六段「芥川」は、平安時代を代表する和歌のひとつ、「白玉か何ぞと人の問ひしとき 露と答へて消えなましものを」を生み出した物語である。この短い物語の中には、単なる恋の悲劇を超えた、男の覚悟の問題が浮かび上がる。本稿では、「かれは何ぞ」と問われたときに答えなかった理由と、その後の和歌における伏線回収について考察する。
1. 「かれは何ぞ」と問われたとき、なぜ答えなかったのか
物語の前半で、駆け落ちを試みる男(在原業平)と姫君の間で、「かれは何ぞ」という問いが交わされる。この「かれ」は、単に「彼」(=男)を指すだけでなく、「あなたはどのような人なのか」「あなたはどれほどの覚悟を持っているのか」という問いかけでもある。
このとき、業平は明確に答えなかった。ここに、彼の**「覚悟の欠如」**が表れている。そして、その場で「露」と答えなかった理由には、和歌における修辞技法が深く関わっている。
「露」は、「儚いもの」「いずれ消えるもの」を象徴する言葉である。和歌において、「露」と「消える」は縁語(意味的に関連する言葉)として結びつく。そのため、「露」と答えることは、「私はいずれ消えてしまう」「私たちの関係は儚いものだ」と言うに等しい。つまり、ここで「露」と答えた場合、それは「二人の関係が一時的なものであり、駆け落ちが成就しない」ことを暗に認めることになってしまう。
だからこそ、業平は答えられなかった。彼は姫君を連れ去るものの、自身の行為の意味や、その先の未来について確信が持てなかったのである。
2. 伏線回収――「露と答へて消えなましものを」
しかし、物語は残酷な展開を迎える。業平が姫君を連れ去ったものの、夜の間に鬼が現れ、姫君をさらってしまう。夜が明け、姫君を失った業平は、悲嘆に暮れて次の和歌を詠む。
白玉か何ぞと人の問ひしとき 露と答へて消えなましものを
ここで注目すべきは、「露と答へて」 という部分である。彼は、最初に答えることができなかった「露」という言葉を、今になって口にしているのだ。
「白玉」 = 宝石(姫君、または自分の心)
「露」 = 儚さ(姫君の運命、または自身の無力感)
「消えなましものを」 = 「あのとき消えてしまえればよかったのに」
和歌の中で「露」と答えることで、物語の伏線が回収される。もし最初の問いかけの際に「露」と答えていれば、姫君とともに消え去る覚悟を示せたのかもしれない。しかし、それをしなかったために、彼は一人取り残されてしまう。
3. 「覚悟の欠如」としての物語の構造
この物語は、単なる悲恋譚ではなく、男の覚悟が試された物語とも読める。
「かれは何ぞ」と問われたときに答えなかった=覚悟の欠如
「露と答へて消えなましものを」と後に詠む=後悔と喪失
つまり、これは「覚悟を示せなかったために、大切なものを失う話」なのである。
実際、『伊勢物語』全体を通して在原業平は「色好み」(恋多き男)として描かれるが、この話では「恋における決断の難しさ」と「覚悟の足りなさ」が浮き彫りになっている。
たとえば、彼が「露」と答えることができたならば、それは「姫君とともに死ぬ覚悟」や「駆け落ちの成功を信じる強い意志」を示すものだっただろう。しかし、答えられなかった彼は、結果的に姫君を失い、自らもその儚さを痛感する。
4. 結論――男の覚悟が運命を分けた
『伊勢物語』第六段「芥川」は、一見すると鬼にさらわれるという幻想的な物語でありながら、実は男の覚悟の欠如が運命を決定づけた物語である。
「かれは何ぞ」と問われたときに「露」と答えられなかったのは、答えることが「消える=別れ」を意味するから。
しかし、その答えなかったことが、結果的に姫君を失う運命を決定づけてしまった。
和歌の中で「露」と答えることで、伏線が回収される。
これは、単なる悲恋ではなく、「男の覚悟」が問われた物語であるは言えないだろうか?
現代の視点で読めば、これは単に「叶わぬ恋」の話ではなく、「決断の重要性」を説く話とも取れる。我々が人生の選択を迫られたとき、曖昧な態度を取れば、結果として何も得られず、後悔だけが残る。「かれは何ぞ」と問われたときにどう答えるかが、人生の分かれ道なのかもしれない。