響け!ユーフォニアム3期10話から13話を原作を読みつつ再々再視聴した気づき
※ネタバレあります。
きょうのタイトル画、
あの記念写真 ↓ に、ひとり加えてみた ↑ よ!
葉月の視線もちょい修正したから、遠慮がちでも仲間に見えるかな?
さてさて。
大事なことを思い出しました。
それは、10話。
なので原作の該当箇所から読みつつ、10~13話を改めて見返してみました。
10話では、部の空気や自分の気持ちの落とし前がつけられず、麗奈からとうとう「部長失格だね」とまで言われてしまった久美子が田中あすかを訪ねるシーンが描かれています。
そう。私が10話を最初に見た時には……
そのシーンでは、あすかから、原作通りの
「滝さんも未熟」
という言葉が出てくるだろうと思って見ていたんすよ。
でも、それがとうとう出なかった……!
Σ(; ゚Д゚) エッ!?
原作では、田中あすかは久美子の相談にきちんと乗ってやる。
アニメでは、相談には応じるが、ズバッと斬り込んで突き放す。
「黄前ちゃんのわがまま」
からの、
「知らな~い」
そして!
「シャワー」
だよ!!!???
((((;゚Д゚)))) えええ!?
考えてみると、これってスゲー。
怒涛のアニオリは、まさに、あすか先輩の、この
「知らな~い」
から始まったと言っても過言ではないのでは……
( ゚д゚)ポカーン
そう。
そこまでは「何が正しいか」という言葉でオブラートに包まれていた、彼女たちの悩みの本質を、あすか先輩ったら、もうぐうの音も出ないぐらいに剥き出しにしちゃった。
剥き出しにしといて、
ポイっ
と、突き放しちゃった!
原作では滝先生の未熟さ、麗奈のコミュ障にも問題あり、っていうくだりにかなりの説得性があったけれど、アニメではそこからさらにもっともっと奥深いところにある、
正しさ以前の、人それぞれの矜持の大切さ
を、突き付けているんだよなぁ。
私は何十年も社会人をやって来て、それこそ地獄のような孤独も味わって来たし、正しさや強さだけでは解決できない問題にも直面して来た。
だから、実は、人間関係の根底にあるものは、「正しさだけを貫かないこと」だったりする……と、思ってる。
音楽を楽しみたい真由。
和を乱したくない真由。
北宇治の「実力主義」を体感して来なかった真由。
全国金という目標を言葉では聞いても心に馴染む時間は持てなかった真由。
つまり、黒江真由は、新しい環境で波風立てたくないと願う『天才少女』。
この『黒江真由』の立場に立ってみれば、黄前久美子は真由の矜持を理解も尊重もせずに、実力主義という「正しさ」(実はワガママ)をゴリゴリに押し付けようとしていた。
それが、人間関係をほころばせていた。
でもワガママが間違っているかというとそうとも言えない。
人間関係って、誰かのワガママに別の誰かが折れる、という繰り返しなのだから、ワガママを言ったっていい。ていうかワガママを言えない世界は窮屈だ。すごく。
ワガママを言っていけないのではなく
ワガママを「正しい」にすり替えるのが、ヘタなやり方なんだ。
ワガママを「正しい」にすり替えても、なーんも解決しない。
コトをややこしくするだけ。
ワガママを「正しい」にすり替えると、結局、誰かを『悪』にしなければならなくなる。
世の中の問題は、たいていそのせいで悪化する。
ワガママはワガママとちゃんと認め、それでもここはそれを通させてほしいとお願いするしかない。「折れてくれ」と、説得するしかない。
🟡黄前久美子はひとりのとりこぼしもなく、北宇治吹奏楽部を全国金に導きたい。
↑ここがワガママ
🟣そのためには実力主義を貫くしかない。
↑ここは事実
🔵そのためには真由にも実力勝負してほしい。
↑つまり、これもワガママ
🟡を叶えるために🔵を望むのであれば、
『正しさ』ではなく『お願い』するしかない。
……これって、滝先生が未熟かどうかなんてことよりも、はるかにコトの真理を突いているな、と、私は思う。
ただし……
原作では指導者の『未熟さ』を取り上げ
アニメでは封印した
その違いは、コンテンツゆえの演出の違いでしかないとも思う。
どっちがいいか悪いかではない。
原作は「文字の世界」なので、文字の世界なりの時間・空間・そして理屈の構築がある。
読み手は自分のペースで、連続しながら文字を追っていく。
その中では、ひとつひとつの会話の中で少しずつ解決していくことができるし、その中で、滝先生も人間だ、滝先生だって未熟なんだ、ということを語ることができる。
それこそ一文字、一文、一台詞を積み重ねて。
だから原作を読み進めれば、『北宇治吹奏楽部』という小社会を舞台に紡ぎあげられる人間関係の綻びや繕いが、より大きくより多様的な視点で予定調和で完成して行くまでを味わえる。
一方、アニメの場合は25分という区切り、週という区切りの積み重ねによって見る人を惹きつけていかなければならない。
回ごとに、見る人をあらためてその世界に引きずりこみ、心を突き動かさなければならない。
何よりも、そこに「音楽」が重なる。
限られた尺の中で、音楽との一体化に持ち込まなければならない。
実際の人間関係では小説のように多様な問題が絡み合うものだけれど、アニメの場合は「ズバッとひとつに絞った方がいい」場合もあるんだろう。
ワルモノを倒す、というストーリーであれば改変せずに演出できるかもしれないけれど、大人数の「端境期」の人間が集まって成長しながら芸術面での開花、昇華を、見る者に納得させなければならないんだから。
これ、言うは簡単だけど実際はめちゃくちゃハードル高いよ……
だって、「ああ、なるほどあの演奏なら金獲るわ」と、ガツンと説得力を持って納得させなければならないんだからね。
しかも、『ワガママ』にフォーカスしたことによって、アニメは
真由がソリを務める方が理屈に合う
という、ものすごい賭けに出なければならなくなった。
だって、↑に書いた、🟡🔵を叶えるために🟣を貫いた結果、久美子の方が上手かったら、
黄前久美子には天賦の才能がある
ことになる。
人間楽学 > 音楽
と辻褄が合わなくなり、
その後の進路に疑問が出てしまう。
―――ということで、
アニオリ改変は、アニメとしての作品の完成度を上げるための、原作者が散りばめた多様な要素をググッと絞って大きな花火にして見せるための、アニメならではの決断だったんだ―――というのが、私の気づきなのでした。
ところで……
『一年の詩』
って、めっちゃ名曲やないですか???
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