光子の窓 全放送リスト(未完成版)

花椿ショウ・光子の窓(1958年〜1960年)は日曜18:30から生放送されていた日本テレビ制作の30分番組。ホステスは草笛光子。

草笛さんがバラエティ番組にゲスト出演する度に「スピッツの子犬を視聴者プレゼントしていた伝説の番組」として紹介されるのが定番となっており、テレビ黎明期の番組としては2021年現在においても認知度が比較的高い“光子の窓”だが、残されている映像はごく僅か。

番組制作の裏側はディレクターの井原高忠氏の著書『元祖テレビ屋大奮戦!』(https://dl.ndl.go.jp/pid/12275875)に詳しく記されているが、参照可能な資料が体系化されていないこともあり、放送から60年以上が経過した今となっては各放送回の内容など判然としない部分も多い。
※放送用台本は合本化された状態で、放送博物館に閉架資料として保存されている(2024年8月13日追記)

本稿では、放送当時のラテ欄や放送内容を取り上げた記事を元に、“光子の窓”全放送回のリスト化を試みる。


1958年

#1  1958.5.11
出演:草笛光子、長嶋茂雄、山田真二、根岸明美、水谷良重、藤本二三吉、藤本二三代、藤村有弘 他
構成:岡田教和
※草笛と長嶋の対談パートはフィルム収録。

ミュージカル・スター草笛光子をレギュラーのホステスとして毎回各界からゲストを招き、歌や踊、インタビュー、コメディーなどをもりこむバラエティー・ショー。
 第一回の今夜のゲストは山田真二、根岸明美、水谷良重、藤本二三吉、二三代母娘、巨人の長嶋選手(ただし長嶋選手と草笛の対談はフィルムで撮影)藤村有弘など多彩な顔ぶれで、歌や踊、対談をくりひろげる。

読売新聞 1958年5月11日朝刊

 同夜の番組から三つ。NTVの新番組「光子の窓」は、この日を第一回としてスタートしたバラエティー・ショー。草笛光子のミュージカル・スターとしての存在を示すに足る三十分だったが、プロローグに草笛の歌うシーンがあってから、間(ま)をおいてCMの漫画が入り、完全に流れを中断したほか、全体に広告過剰もはなはだしいのはまさしく逆効果。スポンサーのものほしげな態度が見えすくようで不愉快である。構成・岡田教和。

読売新聞 1958年5月14日朝刊 テレビ週評

一般家庭にはテレビがないから、かなり番組作ってる人がご趣味でやってる部分が多いわけですね。
(中略)
 僕は、(中略)ジャズ番組なんてのをやってたんだけど、しかしこれではジャズのファンしか見てくれないだろう、と思った。(中略)音楽だけの番組だと、喰わず嫌いがいっぱいできちゃうわけですよ。
 それで、音楽ファン以外の人に音楽番組見せたいなあ、ということから、網タイツ出したりね、コメディとか、面白おかしいやつを入れようじゃないか、という発想になって、バラエティ・ショーのほうへだんだん近づいて行くわけです。

井原高忠『元祖テレビ屋大奮戦!』

 NTVの開局以来、音楽番組、主としてジャズポピュラー系統のプログラムを制作、担当して来た私にとって、常に痛感させられて来たことは、一定の聴視者層しか把握することのできない音楽番組の宿命、すなわち聴視率の悪い音楽番組が、そのでき上りの価値如何にかかわらず、常に日蔭のプログラムでしかないという点でした。(中略)私は私なりに、あらゆる階層の、そしてあらゆる年齢の人たちに好かれる音楽番組を創り上げることを念願とするようになったのです。そして、できたのが『光子の窓』の企画でした。

「特集 ミュージカルの系譜と本質」『放送文化』1960年4月号より井原高忠寄稿文

岡田憲和は菊田一夫さんの弟子ですから、「雲の上団五郎一座」なんて、一所懸命書いてたんでしょうね。(中略)当時、ミュージカルっぽいものは、秦(豊吉)さん菊田さん以下の東宝だったのね。だから、音楽系のものは、東宝と組むのが一番良かったわけ。特にヴァラエティをやるについてはね。その東宝系ということで、岡田さん、そして草笛さんという線が出てきた。そのうちに、岡田さん一人じゃというんで、キノ・トールと三木鮎郎が入ってきた。これは三木鶏郎さんのメンバーですからね。そして、その手下の永六が入ってきた。

キネマ旬報別冊 テレビの黄金時代

#2  1958.5.18
草笛光子、フランキー堺、藤村有弘、能沢佳子 他

 ペリコモショウを目標とした“光子の窓”は発足当所各界のゲストを招き、多彩なプログラムをねらったが、五目ソバ的感じで番組全体のまとまりに欠けていた。(中略)
 この弊害を取り除くため、今までのタレント第一主義から、レギュラータレントでがっちり固め、ゲストは一人か二人いれるという、台本重点主義に踏み切ったのである。

「テレビのジンクスはかくして破れた 資生堂のミュージカルショウ」『ブレーン』1961年10月号

 初期においては、先ず、完全にヴァラエティ・ショウ形式から出発し、これは見事に失敗しました。もちろん我々の不手際が大きな欠陥ではあったでしょうが、根本的にヴァラエティ・ショウなるものが、日本人の気質に合わないのではないかと思われます。
 一般的に言って「この番組はかくあるべし」と聴視者自らが、その番組のフォーマットを決めてかかるために、自分の思惑にはずれた分子が飛び出すと抵抗を感ずる……これでは、ヴァラエティの本質そのものと相容れないということになります。

「特集 ミュージカルの系譜と本質」『放送文化』1960年4月号より井原高忠寄稿文

#3  1958.5.25
草笛光子、藤本二三代、フランク永井 他

#4  1958.6.1
草笛光子、津川雅彦、藤本二三代 他

#5  1958.6.8
草笛光子、久保菜穂子、岡田真澄 他

#6  1958.6.15
草笛光子、久慈あさみ、高島忠夫 他

#7  1958.6.22
草笛光子、藤村有弘、旗照夫 他

#8  1958.6.29
草笛光子、高島忠夫、若原一郎、松山恵子 他

#9  1958.7.6
草笛光子、山田真二、中沢不二雄 他

#10  1958.7.13
草笛光子、鶴田浩二、岡田茉莉子、神楽坂浮子

#11  1958.7.20
草笛光子、三浦洸一、久保菜穂子 他

#12  1958.7.27
草笛光子、高英男、ミヤコ蝶々、藤村有弘 他

#13  1958.8.3
草笛光子、日比野恵子、根岸明美 他

#14  1958.8.10
草笛光子、藤村有弘、アリゴ・ポーラ 他

#15  1958.8.17
榎本健一、水谷良重、朝丘雪路、草笛光子

#16  1958.8.24
草笛光子、金子繁治、藤村有弘 他

#17  1958.8.31
草笛光子、藤村有弘、藤原義江 他

#18  1958.9.7
岡田茉莉子、草笛光子、藤村有弘 他

#19  1958.9.14
草笛光子、藤村有弘、ジェームス繁田 他

#20  1958.9.21
草笛光子、藤村有弘、高島忠夫 他

#21  1958.9.28
草笛光子、藤村有弘、根岸明美、山田真二

#22  1958.10.5
草笛光子、東千代之介、宮城まり子 他

#23  1958.10.12
草笛光子、水谷良重、三木のり平 他

#24  1958.10.19
草笛光子、鶴田浩二、神楽坂浮子、藤村有弘 他

#25  1958.10.26
榎本健一、柳沢真一、草笛光子、藤村有弘

#26  1958.11.2
草笛光子、山田真二、大津美子、藤村有弘

#27  1958.11.9
高島忠夫、草笛光子、藤村有弘

#28  1958.11.16
宝田明、ジェームス繁田、小坂一也 他

#29  1958.11.23
草笛光子、水谷良重、青木光一、藤村有弘

#30  1958.11.30
榎本健一、曙ゆり、草笛光子、藤村有弘

#31  1958.12.7
岩井半四郎、丸山明宏、草笛光子、藤村有弘 他

#32  1958.12.14
草笛光子、水谷良重、山田真二、有島一郎

#33  1958.12.21
草笛光子、トニー谷、久慈あさみ 他

#34  1958.12.28
根岸明美、神楽坂浮子、旗照夫 他

1959年

#35 1959.1.4
草笛光子、藤村有弘、高島忠夫、中村芳子

#36 1959.1.11
草笛光子、藤村有弘 他

#37 1959.1.18
草笛光子、藤村有弘、石井好子、上条美佐保、富永ハル 他

#38 1959.1.25
草笛光子、藤村有弘、三木のり平、和田弘とマヒナスターズ 他

岡田憲和からバトンタッチされた永六輔は、井原高忠と組んで、ミュージカルヴァラエティのいろんな手を考え出し、当時すでにオールドタイマーだったディック・ミネを起用したり、落語家を登場させ、またコメディアンを大胆に使って、これまでの殻を完全に破っていた。その寸劇の一つに、「のり平の電化生活」というのがあり、家中すべて電化したのり平が、スイッチを入れると、電気がショートし過熱して、メチャクチャになるという、いわば電化ブームを皮肉ったもの。

野坂昭如『マスコミ漂流記』

#39 1959.2.1
草笛光子、藤村有弘、藤原義江、牟田悌三、伊藤素道 他

オペラ界の第一人者、藤原義江さんも『カルメン』のパロディみたいなのをやりましたね。草笛光子がカルメンで、藤原さんが、ドン・ホセで。最後に『花の歌』ってえらい長い歌があるんですが(以下略)

井原高忠『元祖テレビ屋大奮戦!』

#40 1959.2.8
草笛光子、藤村有弘、高島忠夫 他

『光子の窓』も最初はセットをガッチリ組んでやっていたんです。(中略)窓があって、そこを開けて草笛光子が歌うから『光子の窓』っていうタイトルなんですけど、ちゃんと奥の部屋までセットが組んであった。
 それがアメリカ行ったあとでは、一枚のほんとのメルヘンの家みたいにこしらえてね、しかもそれが二つに割れるわけです。

井原高忠『元祖テレビ屋大奮戦!』

「女優のシャーリー・マクレーンのだんなでパーカーさんというプロデューサーがいましてね。かれが日本びいきで、NBCに『ジャパン・スペクタクル』というスペシャル番組の企画をもちこんだんですね。で、日本から雪村いづみやジェームス繁田、永田キングらが行くことになって、日本側プロデューサーの伊藤道郎先生が僕を助手として連れて行こうといってくれました。(中略)ロスと、それからあと一人でニューヨークまで行ったんですが(後略)

荒俣宏『TV博物誌』所収の井原高忠インタビュー

日本の場合は、セットがスタジオの壁際に建ってるじゃない。そのセットの傍に人がいて、スタジオの真ん中あたりにカメラがあって、映してる。ところが、アメリカに行って考えたんだけど、スタジオの真ん中は一番いい場所なのね、照明的にも。(中略)その一番いい場所に日本ではカメラがいる。これはおかしいと、僕もスタジオの一番いい場所に映される人を置こう、カメラは今まで人がいた壁際に置こう、と思った。

キネマ旬報別冊 テレビの黄金時代

セットと人物は離れていれば離れているほどいい、というのは当たり前の話ですね。セット用の照明と人物用の照明をわけられますから深みが出せます。(中略)ところが、初期の日本のテレビを思い返してみますと、ただでさえ狭いスタジオで、壁にひっついて演技しているのを、カメラが一番良い真ん中にいて撮ってる状況だったんです。アメリカへ行ってみたら、やっぱり一番いい位置には人物がいるわけよ。

井原高忠『元祖テレビ屋大奮戦!』

それから、人が真ん中にいるときはセットはどうするか。いる時に出そう。いらない時は引っ込めよう。そのためには、車が付いてなかったり、天井へ上がらなかったらどうしようもない。そういうことを、バーバンクのスタジオで考えさせられたの。

キネマ旬報別冊 テレビの黄金時代

 ブロードウェイでは、組み立てあがったセットが自由自在に出たり入ったりする。しかもレールがあって、電気で走ってくるわけです。簡単にいうとフロアに溝が切ってあるのね。
 (中略)アメリカのテレビ局は、主にニューヨークと、ロスアンゼルスに集まっているわけですが、ニューヨークのほうは、もともと土地がないから拡がれないんで、(中略)新たにスタジオを建てるスペースがなかった。(中略)だから、『エド・サリバン・ショー』も、『ペリー・コモ・ショー』も全部古い劇場を改造してやっていた。(中略)従ってシステムもブロードウェイの劇場システムになるわけ。
 ロスアンゼルスのほうに行くと、バーバンクのスタジオみたいに、いきなり法外なでかいスタジオが作れるわけです。舞台として使ってるのはその四分の一。客席があって、舞台があって、ホリゾントがあって、そのホリゾントがブワーッと飛ぶと、こっち側と同じくらいのスペースが向うにあるんだ。そこにいろんなものが格納してあって、ホリゾント飛ばして出てる物を入れる、中のものをビューッと出して来る。(中略)いれば出すし、いらなきゃ片づける、というブロードウェイのシステムをテレビでもやってた。

井原高忠『元祖テレビ屋大奮戦!』

まあ日本の場合は、もうスタジオ建っちゃってるんで、急に、倍にしろ、といったってそれは出来ません。ただ少なくとも、いるものは出す、いらなくなったら片づけるということぐらいはやろうじゃないかと思いました。 ところがセットを上へ飛ばそうにも鉄管も何もないわけだね、照明のボーダーしかない。それでさっそくボーダーをいくつかつってもらって、しかも天井が、飛ばすだけのタッパはないから、じゃあセットを丁番で二つ折りにしようと。(中略) その上セットに車をくっつけて、いらないときはカラカラ引っ込めちゃおうというシステムをまず作りました。

井原高忠『元祖テレビ屋大奮戦!』

セットを全部作り替えたんです。一枚の窓があって、しかも、それには真二つに割れるように車がついていて、その前に花枠がある。まず、その花枠が割れて、草笛光子の歌ってるところにカメラが寄る。その間に、家が無くなっちゃう。次に、カメラをポーンと引くと、何もない。そして、カーテンの中割りが開いて、モデルが三人出てきて踊る、という具合になった。

キネマ旬報別冊 テレビの黄金時代

今でこそVTRがありますから、あんなことは編集すりゃ簡単にできますけど、生の時代にそういうことって非常に不思議なのね。あれ?さっきの家はどこへ行ったんだろう、ってことになる。

井原高忠『元祖テレビ屋大奮戦!』

 井原はその点でじつに恵まれたチャンスを得てきたわけで、彼はそれらの知識や技術を日本的にやることに全力を集中した。(中略)
 とにかく、一九五九年二月から更新された「光子……」スタイルは、〈今日「光子……」式でいこう〉という言葉まで使われているほど、斬新であり、パイオニア的な実験に富んでいた。だが、それ以前において、この番組の基礎は出来ていたと、私は解釈している。その証拠に、この番組のスタッフ・キャストは、ほとんど変わつていない。

志賀信夫「快適なテンポと諷刺性をもつバラエティ」『映画芸術』1960年5月号

 また、この番組の魅力は快適なテンポにある。テンポを早くするために、カット数をふやさず、被写体(人物やセット)を動しているところに特長があり、固定されたカメラを多用し、しかも流動感とテンポを出している。そのため、動くセットを設計している川村弘明の苦心も買うべきであろう。

志賀信夫「快適なテンポと諷刺性をもつバラエティ」『映画芸術』1960年5月号

#41 1959.2.15
草笛光子、藤村有弘、勝新太郎 他

#42 1959.2.22
草笛光子、藤村有弘、藤沢嵐子、ビンボーダナオ、早川真平と楽団 他

#43 1959.3.1
草笛光子、藤村有弘、伊藤素道と楽団、小原重徳と楽団、美川章子

 こうして『光子の窓』が第二期に入ったのは、昨年の三月でした。この年の一月から二月にかけて、私は渡米し、西岸では主としてバーバンクのNBCでカラーを中心としたテレビを、東岸では、主として、ブロードウェイのミュージカルを視察して来ました。この渡米で得た最大の収穫は「日本人は、「日本人の芸能(エンターテインメント)を持たねばならぬ」ということに気づいた点です。
 我々がいかにアメリカ流のものを模倣しても、所詮それは猿真似でしかないということです。
 (中略)そして、三月からの『光子の窓』は、「日本のテレビ・ミュージカル・ショウ」を目標と定めました。いわば演出する上に大きなメドと目標がついたのです。

「特集 ミュージカルの系譜と本質」『放送文化』1960年4月号より井原高忠寄稿文

#44 1959.3.8
草笛光子、藤村有弘、岩井半四郎、原信夫と楽団 他

#45 1959.3.15
草笛光子、藤村有弘、高島忠夫、美川章子、原信夫と楽団、伊藤素道と楽団

#46 1959.3.22
草笛光子、藤村有弘、岡田真澄、根岸明美、坊屋三郎、マノロ・バルデス 他

#47 1959.3.29
草笛光子、藤村有弘、トニー谷、旗照夫、宇治かほる 他

#48 1959.4.5
草笛光子、藤村有弘、美川章子、刈屋ヒデ子、伊藤素道とリリオリズム・エアーズ 他

#49 1959.4.12
草笛光子、宝田明、美川章子、藤村有弘、伊藤素道とリリオリズムエアーズ、原信夫とシヤープアンドフラツツ 他

#50 1959.4.19
草笛光子、藤村有弘、ユセフ・トルコ、伊藤素道とリリオリズム・エアーズ、原信夫とシヤープス・エンド・フラツツ 他

最近、SKDや宝塚歌劇団の中堅クラスが続々と退団して、テレビ界で活躍をはじめているのが目立つ。彼女らはいずれも歌えて、踊れるという強みをもっているので、それに目をつけた民放テレビ界ではミュージカル・プレーの放送ブームが起きている。
  この種のものに先べんをつけたのはNTVの「光子の窓」(日曜夜6・30-7・00)で、草笛光子を主演にちょっとしたお色気を加えたこのミュージカル・ショーは評判もよく、開始以来早くも二年目を迎えている。これは主演の草笛光子がもともとSKDのスターだったころから起用されたものだが、未開拓の音楽劇に新分野をひらいた。これにつづきNTVは美川章子を主演に「ウイーク・エンド・イン」(土曜後10・40-10・55)を開始した。

読売新聞 1959年4月19日朝刊

#51 1959.4.26
益田キートン、柳沢真一、草笛光子、藤村有弘、美川章子、伊藤素道と楽団、原信夫と楽団

#52 1959.5.3
草笛光子、藤村有弘、美川章子、旗照夫、伊藤素道とリリオ・リズム・エアーズ、原信夫とシヤープス・エンド・フラツツ 他

#53 1959.5.10
「無人島漂流記」
草笛光子、高島忠夫、藤村有弘、美川章子、竹部董、伊藤素道とリリオ・リズム・エアーズ、原信夫とシャープス・エンド・フラッツ

「光子の窓」のレギュラー・メンバーが、アフリカの放送局に招かれていく途中、暴風雨にあい全員無人島に漂着。この島をスピッツ島と名づけ、全員選挙によってそれぞれ大臣となり、仕事を分担することになった。さて内閣総理大臣草笛光子以下、閣僚の顔ぶれもそろい、どうやら仕事もスムースに捌きはじめたある日、高島忠夫がやはり暴風雨でこの島へ流されて来た。そこで一同高島をゲストに迎え、この島で「光子の窓」を上演することに話がきまり、あり合せのものをかり集め、至極風変りなショーがくりひろげられる。

読売新聞 1959年5月10日朝刊

#54 1959.5.17
草笛光子、高英男、八波むと志、藤村有弘、美川章子、伊藤素道とリリオ・リズム・エアーズ 他

#55 1959.5.24
草笛光子、岩井半四郎、笈田敏夫、山本浩久、三木鮎郎、南村侑広、藤村有弘 他

#56 1959.5.31
「明日は記念日」
草笛光子、藤村有弘、美川章子、伊藤素道とリリオ・リズム・エアーズ 他

#57 1959.6.7
草笛光子、藤村有弘、美川章子、伊藤素道とリリオ・リズム・エアーズ、鈴木章治とリズム・エース 他

#58 1959.6.14
草笛光子、藤村有弘、美川章子、原信夫とシヤープス・アンド・フラツツ 他

#59 1959.6.21
草笛光子、藤村有弘、古今亭志ん生、水谷良重、美川章子 他

#60 1959.6.28
草笛光子、藤村有弘、笈田敏夫、藤原釜足、美川章子、伊藤素道とリリオ・リズム・エアーズ 他

#61 1959.7.5
草笛光子、藤村有弘、デリカド夫妻、美川章子、伊藤素道とリリオ・リズム・エアーズ 他

#62 1959.7.12
草笛光子、藤村有弘、伊藤素道とリリオ・リズム・エアーズ、原信夫とシャープ・エンド・フラツツ 他

#63 1959.7.19
「お熱いのがつらい」
草笛光子、藤村有弘、高島忠夫、伊藤素道と楽団、原信夫と楽団

#64 1959.7.26
草笛光子、藤村有弘、リズムエアーズ、原信夫とシヤープスエンドフラツツ 他

#65 1959.8.2
草笛光子、藤村有弘、伊藤素道とリリオ・リズム・エアーズ、原信夫とシヤープス・エンド・フラツツ 他

#66 1959.8.9
草笛光子、藤村有弘、木村功、伊藤素道とリリオリズムエアーズ、原信夫とシヤープスエンドフラツツ 他

#67 1959.8.16
草笛光子、藤村有弘、伊藤久哉、伊藤素道とリリオ・リズム・エアーズ

#68 1959.8.23
草笛光子、藤村有弘、伊藤素道とリリオリズムエアーズ 他

#69 1959.8.30
「お祝い」
草笛光子、藤村有弘、岩井半四郎、伊藤素道とリリオ・リズム・エアーズ 他

#70 1959.9.6
「牡丹灯籠」
草笛光子、藤村有弘、伊藤素道とリリオリズムエアーズ 他

#71 1959.9.13
「ブルー・ムーン」
草笛光子、藤村有弘、高島忠夫、藤原釜足、伊藤素道とリリオリズムエアーズ 他

#72 1959.9.20
草笛光子、藤村有弘、岩井半四郎、伊藤素道とリリオリズムエアーズ 他

#73 1959.9.27
「ジャックと豆の木」
草笛光子、藤村有弘、伊藤素道とリリオ・リズム・エアーズ 他

草笛光子がジャックで小っちゃいの。片や大男が伊藤素道。ほんとにすごく大きく見える。それは、上手側の黒バックの所に大男がいて、下手か正面の黒バックで草笛さんのロングを撮って、それを合成した。もちろん、合成と言っても、オーバーラップさせてるだけですけど。(中略)最後に大男が雲の上から墜落するところまでやった。あれは逆転してパン・アップしたんだと思いますよ。

キネマ旬報別冊 テレビの黄金時代

#74 1959.10.4
「この世はすべてリズムで」
草笛光子、藤村有弘、伊藤素道とリリオリズムエアーズ 他

#75 1959.10.11
「大人になったら」
草笛光子、藤村有弘、伊藤素道とリリオ・リズム・エアーズ 他

日本のテレビ番組の中で“まだまだお粗末”といわれている分野が、ミュージカル・バラエティーだ。舞台のほうにミュージカルの伝統がさっぱりないのだから、テレビに「いいミュージカルを」と注文するほうが無理かも知れないが、その中にあって孤軍奮闘--くろうと筋にも「一応見られる」と評判のよいのが、毎日曜の夕方六時半から放送される「光子の窓」である。阪神地区では、同じ時間に爆発的な人気のある「やりくりアパート」(朝日テレビ)とぶつかり視聴率は高くはないが、東京その他では根強いファンをつかんでいる。
 「光子の窓」の題名どおり、この番組のホステスは草笛光子だ。毎回これというストーリーのないバラエティーで、彼女が歌って、踊って、芝居をして、懸賞のスピッツをゲストに贈って……大車輪の活躍である。見ていると、放送の三十分間、狭いセットの中を飛び回り通し。あれではうわべをとりつくろうヒマはない。画面には恐らくナマの彼女がそのまま出ているのだろうが、そのナマの魅力で番組を支えているのだから、得がたいタレントだ。
(中略)
 この番組は始まって一年半、はじめはこの“決った役柄のない役”にとまどっていた彼女も「ここ半年ばかり、すっかり安定したホステス役をつとめている」(原作者の一人、キノトール氏の話)という評判だ。もっとも、これには芸達者な助演者、藤村有弘の名バック・アップの功績も大きい。アクの強いわりには、要所、要所は控えめに出て彼女を引立てている。
 ディレクターの井原高忠氏も、現在のテレビ界ではミュージカルの第一人者だ。たたみかけるような早いテンポで、一秒の二分の一までカメラのコマ割りを計算している。カメラの位置を真上から、足もとから、正面から、背後から……とめまぐるしく変えるばかりでなく、放送中に背景の大道具を動かしてまでリズム感を盛ろうとする。現在のテレビの仕組みからいうと、こういったやり方は非常にむずかしい手法なのだが、常に新しい冒険を試みないではおれない性分だ。しかも潔癖なところもある--日本テレビはカラー放送に力を入れているが、いちばんカラーに向きそうなこの番組がまだカラーをやっていない。それは「いまのカラー放送は大がかりなカメラ操作が必要だが、あれでは“光子”の持ち味のリズム感がそこなわれる。まだ自信が持てないからだ」と井原氏はいう。また、彼はコーラスが専業のリリオ・リズム・エアーズからコマーシャルに出てくるモデル嬢まで、この番組のレギュラー全員にうるさいくらい"演技"を要求する。(中略)
 こうしたディレクターの熱意に押されて、原作を回りもちしている三木鮎郎、キノトール、永六輔の三氏も「この番組だけは、けいこに顔を出さないではおられない」(キノトール氏)といった力の入れようだ。音楽の広瀬健次郎、振付の竹部菫氏らその他のスタッフも、二十代の若さの情熱をこの番組に注ぎ込んでいる。大道具係でも照明係でも、スタッフが四、五人集まればジャズ・バンドができるというほど、音楽好きがそろっているのがなによりの強みだ。「日本のテレビ局がドラマ優先で、とかく冷遇されているミュージカル番組の地位を実力で向上させたい」というのが、みんなの念願なのだそうだ。

朝日新聞 1959年10月17日朝刊 人気プロの人々

#76 1959.10.18
「野球狂大騒動」
草笛光子、藤村有弘、由利徹、八波むと志、南利明、伊藤素道と楽団 他

#77 1959.10.25
「なつかしい歌」
草笛光子、藤村有弘、岩井半四郎、伊藤素道とリリオ・リズム・エアーズ 他

#78 1959.11.1
「文化勲章の秋」
草笛光子、藤村有弘、高島忠夫、南利明、伊藤素道とリリオリズムエアーズ 他

#79 1959.11.8
「旅行シーズン」
作:キノ・トール
出演:草笛光子、藤原釜足、ハナ肇とクレイジー・キャッツ、藤村有弘、伊藤素道とリリオリズムエアーズ 他

日本テレビ八日の「光子の窓」は「旅行シーズン」(キノ・トール作)だったが、萩原朔太郎の詩で窓を開き、旅への誘いの季節感を出しながら、その中に台風対策、税金、運賃値上げ問題など政治への風刺を軽妙に盛込んだのは、ミュージカル・プレーだけにお手柄だった。わき役で藤村有弘と藤原釜足がその持味を良く生かしていたのが成功したともいえよう。

読売新聞 1959年11月11日朝刊 放送塔

#80 1959.11.15
「古い国 新しい日本」
草笛光子、古今亭志ん生、ジェリー藤尾 他

 現在、作者は、永六輔、キノトール、三木鮎郎、矢代静一の四人の合作だが、(中略)キノトール、矢代静一という人たちは、どちらかというと、ストーリーが勝つた文芸的なものが多く、三木鮎郎、永六輔らは寸劇のよせあつめのほうが多い。それ故、強いて分けると、前二者はミュージカル・ドラマ派であり、後二者はバライェティ・ショー派であろう。
 永、三木、キノトールの台本をよんで感ずることは、レギュラーのキャストのキャラクターをよく掴んでいることと、テレビ機構を良く知つて書いていることである。(中略)
 しかも、これらの作者は、つねにトピカルな題材をえらび、相当しんらつな諷刺をしている。例えば最近では、「雲にそびゆる」(紀元節の諷刺、三月七日放送、キノトール作)「もう幾つ寝たら」(時に追いまわされる生活の諷刺、一二月二〇日放送、永六輔作)「古い国・新しい日本」(十一月五日放送なので、七五三にちなみ日本の古さの諷刺)……等々、ほとんどすべての番組にサタイアのメスが振るわれている。

志賀信夫「快適なテンポと諷刺性をもつバラエティ」『映画芸術』1960年5月号

#81 1959.11.22
「女を選ばば・・・・」
草笛光子、旗照夫、谷啓、八波むと志 他

#82 1959.11.29
「蟻とコウロギ」
草笛光子、高島忠夫、伊藤素道とリリオリズムエアーズ

#83 1959.12.6
「クリスマス・セール」
草笛光子、藤村有弘、伊藤素道 他

#84 1959.12.13
「先生の走る時」
草笛光子、旗照夫、八波むと志、谷啓、藤村有弘、伊藤素道 他

#85 1959.12.20
「もう幾つ寝たら」
作:永六輔
草笛光子、徳川夢声、藤村有弘、伊藤素道とリリオ・リズム・エアーズ、原信夫とシャープス・エンド・フラッツ

あと十一日でことしも終わる今夜は、徳川夢声をゲストにまねき矢の様に過ぎ去ってゆく「時」をテーマにとりあげたミュージカル・ショー「もう幾つ寝たら」。
時計に追いまわされる人々の生活を軽く風刺したしゃれたコントをはさみ、歌や踊りがくりひろげられる。コントでは夢声老が、話術の妙を見せてくれる。

読売新聞 1959年12月20日朝刊

#86 1959.12.27
「今年のブームの勢ぞろい」
草笛光子、益田キートン、トニー谷、三遊亭円歌、南利明、藤村有弘 他

1960年

#87 1960.1.3
「ア・ラ・目出たいな」
草笛光子、藤村有弘、伊藤素道とリリオ・リズム・エアーズ 他

#88 1960.1.10
「あなたも狂っている」
草笛光子、藤村有弘、伊藤素道とリリオ・リズム・エアーズ、旗照夫、水谷良重 他

#89 1960.1.17
「お宮・貫一」
草笛光子、藤村有弘、伊藤素道とリリオ・リズム・エアーズ 他

#90 1960.1.24
「別冊勧進帳」
作:永六輔
草笛光子、藤村有弘、中村富十郎、江木俊夫、伊藤素道とリリオ・リズム・エアーズ 他

カブキといえば、24日夜NTVの「光子の窓」で、中村富十郎が草笛光子の弁慶の相手役として、富樫を神妙に演じている(中略)題して“別冊・勧進帳”。指導格といえばきこえはいいが、ミュージカル仕立てのこの番組みになまじ富十郎がまじっていること自体、こころにひっかかるものがあったのはいなめない。

読売新聞 1960年1月27日朝刊 テレビ週評

最後に一言苦言を呈するならば、去年の後期から、日本的な題材のものを多く採りあげているが、がいして内容も低調で、テンポも悪く質も低俗化している。そのうちでは、永の「別冊勧進帳」はよかった。ミュージカル・バライェティの日本的発展の意欲は結構だが、思い付きや楽屋落ちが多すぎ、ひねりがきいていないのが惜しまれる。ともかく、スタッフの多くは若いのである。この若さとファイトとエネルギーで、どんどん野心作を実験していつてほしい。

志賀信夫「快適なテンポと諷刺性をもつバラエティ」『映画芸術』1960年5月号

 この番組には最近しばしば日本の古典劇が素材としてとりあげられる。「勧進帳」だの「一本刀土俵入」などがそうだ。
 ところが新聞の投書面を見ていると、日本調のものを演ったときが特に評判が悪い。原作の品位をおとし、原作の芸術的価値を損ねているというのが悪評の大きな理由のようである。
 こうした悪評を気にかけることはないが、私も見ていて日本ものは成功していないと思う。作者たちが才気にまかせて筆をすべらせばすべらすほど、どうも素材とミュージカルという形式とが遊離してしまって、素材である物語りがふみづけにされてしまう。
 歌舞伎の「勧進帳」などは世界の演劇の分類によれば、明らかにミュージカルの部類に属する。これを近代的ミュージカルにできないはずはないのだ。井原君はそれをしようとしたのだろうか。……どうもうまくいっていないのだ。
(中略)
 素材として古典劇を使用するというような生きかたではなくて、ミュージカルショーの中に、伝統芸術の技術を加えていくことが必要ではないか。

内村直也「伝統芸術をどう生かすか テレビ演出家研究⑥ 井原高忠」『キネマ旬報』1960年5月上旬号

#91 1960.1.31
「巷に雨が・・・・」
草笛光子、藤村有弘、ディックミネ、伊藤素道とリリオ・リズム・エアーズ 他

#92 1960.2.7
「紀元節バラエティー・雲にそびゆる」
作:キノトール
草笛光子、藤村有弘、伊藤素道とリリオリズムエアーズ 他

#93 1960.2.14
「南の殿様」
草笛光子、藤村有弘、伊藤素道とリリオリズムエアーズ、(ゲスト)旗照夫、有木山太

#94 1960.2.21
「これがバラエティかな」
作:永六輔
草笛光子、藤村有弘、伊藤素道とリリオリズムエアーズ、玉川勝太郎 他

(前略)だが、井原のほんとうの活躍は、やはり彼の帰国後にあると思う。一九五九年二月、一ヵ月間ほどアメリカのTV界を視察してきた彼は、いままでの面目を一新して、新しいスタイルを打ちだした。
 すなわち、〈バライェティとは何であるか〉という本質を、本場で見聞してきてわかつたことである。ホストないしホステスがつく、バライェティ・ショーは、アメリカではたいへん流行しており、人気をよんでいるが、それがミュージカル・ドラマやコメディ・ドラマとどう違うのかを、井原はつぶさにみてきたわけである。そして、歌、踊り、アクロバット、寸劇など、いままで舞台にのつたものはなんでもやるショーをつくる意を固め、それらをTV的にどうこなすかを勉強してきた。
(中略)
一言でいうならば、「ペリ・コモ……」スタイルの模倣ではなく、その日本的消化を志したわけである。
 本年二月二一日にオン・エアした「これがバラエティかな?」(永六輔作)において、その意欲のほどがうかがえたが、この番組はそうした彼の意欲を一年後に素直に出した作品としてみるとき、興味つきないものがあつた。

志賀信夫「快適なテンポと諷刺性をもつバラエティ」『映画芸術』1960年5月号

#95 1960.2.28
「銀座明治十七年」
作:三木鮎郎
出演:草笛光子、藤村有弘、佐野周二、伊藤素道とリリオリズムエアーズ
https://waseda.primo.exlibrisgroup.com/permalink/81SOKEI_WUNI/7jeksk/alma991024339399704032

#96 1960.3.6
「とかくお酒というものは」
中島そのみ、三木のり平、笈田敏夫、谷村昌彦、小柳久子、宮地晴子

#97 1960.3.13
「カチカチ城」
作: 矢代静一
出演:草笛光子、平凡太郎、水谷良重、伊藤素道とリリオリズムエアーズ 他https://waseda.primo.exlibrisgroup.com/permalink/81SOKEI_WUNI/7jeksk/alma991024341109704032

#98 1960.3.20
「ネット・ワークでハネムーン」
草笛光子、ミス・ネット局16人、筑紫マリ、三国一朗、小松礼子 他

#99 1960.3.27
「一本刀土俵入り」
脚本:P・キノトール
出演:草笛光子、フランキー堺、藤村有弘、伊藤素道とリリオ・リズム・エアーズ、谷村昌彦

日本的なミュージカルも結構だが、27日夜NTVの「光子の窓」で長谷川伸作“一本刀土俵入り”をミュージカルにしてみせたのは、いくらなんでも度胸がよすぎる。

読売新聞 1960年3月30日朝刊 テレビ週評

#100 1960.4.3
(第100回記念特別番組み)「100回おめでとう」
草笛光子、藤村有弘、(ゲスト)三木のり平、岸恵子、水谷良重、有島一郎、高島忠夫、旗照夫、藤原義江、松田和子、ハナ肇とクレイジー・キャッツ 他

今夜は百回記念で「百回おめでとう」。
 帰国中の岸恵子、三木のり平をはじめ、かつてこのショーに出演したことがある水谷良重、有島一郎、高島忠夫、旗照夫、藤原義江、松田和子ら十数人のスターに、ハナ肇とクレイジー・キャッツがゲストとして出演、歌とコントと踊りによる「百」のバラエティーで百回目を祝う趣向。

読売新聞 1960年4月3日朝刊

 日本テレビの「光子の窓」(毎週日曜夜6・30)が三日でちょうど百回を迎える。そこで当日は「百回おめでとう」と題して“百”にちなんだ特別番組を放送する。
 出演も草笛光子、藤村有弘、伊藤素道とリリオ・リズム・エアーズのレギュラーのほか、お客さんに友情出演として岸恵子をはじめ三木のり平、高島忠夫、旗照男、藤原義江、水谷良重、有島一郎、ドクトル・チエコ、ハナ肇と楽団など多数が参加していろどりをそえる。
 この番組は三十三年六月に始まって以来、主役の草笛は二回しか休んでないそうだ。映画のロケで九州に行ったときと、過労で倒れたときで、どちらも本人は出たがったのだが、どうしようもなかった。それだけにこんどの百回記念も残念でたまらないという。(中略)
 担当の井原ディレクターは「こんなに長く続いたのも出演者やスタッフ一同の人の和のたまものだと思う。今後もチームワークよく、さらに立派なミュージカル・バラエティーを作っていきたい」と語っている。

朝日新聞 1960年4月1日朝刊

3日夜NTVの「光子の窓」は、百回ということにすこしこだわりすぎた感じ。百という字のバラエティーが中心だが、ヨシエちがいで水谷良重と藤原義江が混線するあたりのギャグはきいている。

読売新聞 1960年4月6日朝刊 テレビ週評

#101 1960.4.10
「お化けに幽霊」
草笛光子、藤村有弘、伊藤素道とリリオリズムエアーズ、(ゲスト)徳川夢声 他

#102 1960.4.17
「キューリー夫人伝」
草笛光子、藤村有弘、伊藤素道とリリオリズムエアーズ

偉大な科学者キューリー夫人の劇的な一生をミュージカルでおくる。
 草笛光子は祖国ポーランドの独立を願う愛国心に燃えた少女時代から、放射能障害で六十六歳の一生を終えるまでを演じ、ピエール・キューリーには藤村有弘がなる。

読売新聞 1960年4月17日朝刊

#103 1960.4.24
「素敵なオクサン」
草笛光子、藤村有弘、北村和夫、伊藤素道とリリオリズムエアーズ

#104 1960.5.1
「一億総批評家」
草笛光子、E・H・エリック、有木山太、丸山明宏、南村侑広、平沢雪村、近藤日出造 他

#105 1960.5.8
「母とママとおふくろと」
構成:永六輔
出演:草笛光子、(ゲスト)古今亭志ん生、岡田真澄・ママコ夫妻、トニー谷、古今亭志ん生、平凡太郎、柳沢真一 他

「光子の窓」も今夜で三年目を迎える。そこで古今亭志ん生、平凡太郎、岡田真澄・ママコ夫妻、トニー谷、柳沢真一などのゲスト陣を加えて母の日にちなんだバラエティーショー「母とママとおふくろと」をおくる。
 構成・永六輔。
 音楽・広瀬健次郎、伊藤素道とリリオリズムエアーズ、原信夫とシャープス・アンド・フラッツ、竹部董舞踏団。

読売新聞 1960年5月8日朝刊

#106 1960.5.15
「芥川の鬼」
作:八代静一
出演:草笛光子、(ゲスト)富士真奈美、田浦正巳

#107 1960.5.22
「スパイ大行進」
草笛光子、市村俊幸、高英男、五十嵐新次郎、伊藤素道とリリオリズムエアーズ

#108 1960.5.29
「ハムレットに逢いましょう」
草笛光子、トニー谷、笈田敏夫、千之赫子、有木山太、簡野典子

#109 1960.6.5
「われら日本人」
作:三木鮎郎、前田武彦
出演:草笛光子、(ゲスト)旗照夫、由利徹、リンダ・ビーチ、十返肇、伊藤素道 他

世界的な日本ブームとともに、日本は一等国だとうぬぼれを持つ者、まだ八等国、九等国で世界のいなか者だとバカにする者、しかし、いずれにしても日本人は日本人。
 そこで、日本人の特徴をあらゆる面からとりあげ、ゲストにリンダ・ビーチ、旗照夫、由利徹、評論家の十返肇氏らを迎え歌や踊りやコントでつづる三木鮎郎、前田武彦作の「われら日本人」。

読売新聞 1960年6月5日朝刊

#110 1960.6.12
「昔ギリシャに」
草笛光子、益田キートン、森川信、高美アリサ、伊藤素道とリリオリズムエアーズ

#111 1960.6.19
「ウエルカム・ジャパン」
作:三木鮎郎
出演:草笛光子、ロイ・ジェームス、旗照夫、小桜京子、伊藤素道とリリオ・リズム・エアーズ、(ゲスト)ドジンスカヤ、セルゲーエフ

レニングラード・バレー団のプリマ、ドジンスカヤ、そのパートナー、セルゲーエフを迎えてシュトラウスのワルツをひろうし、外国人から見た日本の姿をコントふうに描くミュージカル「ウエルカム・ジャパン」。作・三木鮎郎。

読売新聞 1960年6月19日朝刊

#112 1960.6.26
「ピンからキリまで」
草笛光子、平凡太郎、春風亭柳好

#113 1960.7.3
「ハリス外伝」
草笛光子、(ゲスト)J・B・ハリス、旗照夫、南利明、伊藤素道とリリオリズムエアーズ

#114 1960.7.10
「夏休みバンザイ」
草笛光子、富田恵子、南利明、笈田敏夫、ハナ肇とクレイジイキャッツ 他

#115 1960.7.17
「発明発見バラエティー」
草笛光子、由利徹、富田恵子、ハナ肇とクレイジーキャッツ 他

#116 1960.7.24
「杜子春」
作:キノ・トール
出演:草笛光子、岩井半四郎、旗照夫、宇治かほる、南利明、有木山太 他

-「光子の窓」で、"杜子春"ですか、(ナマで)人間が倒れた形のまま魂だけ起き上がるというのを見せましたね。あれにはびっくりした。

キネマ旬報別冊 テレビの黄金時代

#117 1960.7.31
「女だけの国」
草笛光子、宮城まり子、ハナ肇とクレイジイ・キャッツ 他

#118 1960.8.7
「飛行機物語」
作:三木鮎郎
草笛光子、(ゲスト)旗照夫、南利明、三木鮎郎 他

#119 1960.8.14
「子だったことを忘れている大人たち」
草笛光子、伊藤素道とリリオリズムエアーズ

#120 1960.8.21
「真夏のヒルの夢」
草笛光子、長門裕之、久保菜穂子、水谷良重、南利明、伊藤素道楽団

#121 1960.8.28
「僕も私もホスト・ホステス」
作:永六輔
出演:草笛光子、富田恵子、旗照夫、森川信、ハナ肇とクレージー・キャッツ

#122 1960.9.4
「心にハーモニーを」
草笛光子、南利明、ミルス・ブラザーズ、リリオリズムエアーズ

#123 1960.9.11
「銅像物語」
草笛光子、南原宏治、南利明、リリオリズムエアーズ

#124 1960.9.18
「笑わない日本人」
草笛光子、伊藤素道とリリオリズムエアーズ、(ゲスト)谷敬、旗照夫、大橋巨泉

#125 1960.9.25
「私は演出家です」
草笛光子、古今亭志ん生、南利明、リリオ・リズム・エアーズ、笈田敏夫

#126 1960.10.2
「クララ・シューマン伝」
草笛光子、伊藤素道とリリオリズムエアーズ、(ゲスト)徳川夢声、南利明

#127 1960.10.9
「ジャズはいかが」
草笛光子、南里文雄とホットペッパーズ、鈴木章治、宇治かほる 他

#128 1960.10.16
「アーブラ・ガダブラ」
トニー谷、由利徹、南利明、村田英雄、森山加代子、南村侑広 他

#129 1960.10.23
「忙しいうちがハナ」
草笛光子、旗照夫、南利明、リリオリズム・エアーズ

#130 1960.10.30
「イグアノドンの卵」
18:15〜19:00の15分拡大版。カラー放送。芸術祭参加作品。
※芸術祭奨励賞受賞を記念して、同年12月23日14:15〜アンコール・アワーの時間に再放送(カラー)。
現存する映像はモノクロフィルムにダビングされたもの(キネコ)。放送ライブラリで視聴可能。

これは「テレビの芸術祭参加作品はテレビに生きる人の手で」という主張のもとにレギュラー番組み「光子の窓」がそのままのスタッフで芸術祭に参加し、この主張をそのまま内容としてテレビの問題をテーマとするもの。
 テレビの出現は人間の生活を一変させてしまった。電気紙芝居といわれたテレビも今では現代人の生活の中に結実し、社会の一つの大きなにない手となっている。しかしそれだけに、人間の生活を幅広く豊かなものにする一方、一歩あやまれば人類にとって危険この上ない武器となるかもしれない。題名の「イグアノドンの卵」は白亜紀後期に実在した体長十メートル、前足の第一指に大きなツメを持つ恐竜の卵であり「うっかりするとテレビはものすごい怪物の卵になってしまう。これを人類のしあわせのために育てあげるか、あるいは狂暴な怪物に育てあげるかはテレビを見る人々の育て方次第なのだ」という主張を表わしたものである。
 この作品はまずテレビの現状から始まる。スポンサー、作者、音楽家、振り付け師、演技者、演出家などテレビを作る側のスタッフがユーモラスに紹介される。さらに現在テレビをどれだけ多くの人々が見ているかということと、聴視者こそがテレビの死命と将来を制することを軽妙なコント、歌、踊りで説明する。そしてテレビが人々の生活の中にくいこんでいく未来の生活を描き、こうした状態にもっとも危険である独裁者(泥棒という形で表わされたー)の登場へと発展していく。
(脚本)三木鮎郎、キノトール。(音楽)広瀬健次郎(美術)真木小太郎(振り付け)竹部董(仮面制作)菅原安男(演出)井原高忠。

読売新聞 1960年10月30日朝刊

 芸術祭とは、敗戦後の荒廃した日本を芸術・文化の力で建て直すべく、当時の文部省が一九四六年から開始したもので、(中略)各分野において、団体/個人の優れた作品やパフォーマンスに対して、芸術祭賞(文部大臣賞)ならびに、それに次ぐ奨励賞が授与されていった。(中略)
 芸術的な探究をおこなう初期ドラマの制作者たちは、芸術祭を目指して競い合うことが刺激にもなっていた。(中略)内村直也は、「テレビの部門においては、この行事は異常なまでに関係者の熱意をあおる」と述べている(後略)

北浦寛之『東京タワーとテレビ草創期の物語』

 日本テレビが秋の芸術祭に参加する作品二本のうち一本が二十七日きまった。毎週日曜日午後六時三十分から放送しているミュージカル「光子の窓」を四十五分のカラー・ワイド番組みに改め放送するもので「イグアノドンの卵」という副題がつけられている。レギュラー番組みがカラーで芸術祭に参加するのはこれがはじめて。
 出演は草笛光子、伊藤素道とリリオリズムエアーズのレギュラーが予定され、作者はキノ・トール、三木鮎郎、永六輔。音楽は広瀬健次郎。演出は日本テレビの井原高志が当たる。

読売新聞 1960年9月28日朝刊

岡田 ミュージカルやボードビルをやっていらして、その面で永さんどうでしょう。
永 僕一寸そのことで意見があるんです。ぜひいいたいことが。(笑)それはテレビでミュージカルをやるのは絶対止した方がいいということなんです絶対に。とにかく、皆なくたびれちゃうんですよ、作者も演出家も出演者も。くたびれた結果に出て来るものは、決して舞台でやるものよりよくなった試しがない。
寺山 情勢論から考えてですか。それとも本質的に?
永 全然情勢論。
寺山 それは情勢が変る事によって変って行くとは思わないんですか。
永 もちろん、情勢が変れば変る。今の段階で僕らがミュージカルをテレビでやることの必要を認めない。日本のミュージカルは、まだほんのミュージカル運動の部類で、ミュージカルがいかに楽しいかということを一人一人に首をしめてでも教えなければいけない段階だと思う。それが今の日本の放送局では不可能なんです。本や音楽やタレントの問題じゃなくて。結果として聴視率もさがっているし。
江上 どういうところに欠陥があるんですか。面白くないという……。
永 はっきりいって予算がないだけの問題ですね。余り貧しすぎる、そのためみんなくたくたですよ。全く今くたびれちゃ損です。テレビはこれから十年先二十年先がよくなるから。
藤田 僕もミュージカルを書いてる一人として、残念ながら永さんと全く同じ意見なんです。僕は十年先二十年先にも一寸無理じゃないかと。具体的な例をあげますと、現在ミュージカルをテレビでやる場合、歌をまず録音テープにとって置きましてそれを流すんです。歌手が出て、それに合わせてパッパッと口をあわすわけですね。(笑)
寺山 僕はまだくたびれる程、テレビでミュージカルを書いてかせぐほど恵まれてないんで。(笑)そんなに絶望的かどうか、ただ情勢論だけで片づけたくない気持があるんですけれどね。おおざっぱに想像しても、一本ずつミュージカルをやって、アフレコみたいに口をあわせたり、前の日に本が出来て次の日に流すなんてことじゃ絶対駄目だって気がします。
寺田 いまね、タレントの問題とかディレクターのシステム、まあ、いろんな問題が出ましたが、どんな制約があったところでですね、やるのは人間なんだ、人間自身が制約の中ではね返しながら、一つの可能性を、人間追求をしなければしようがない。絶望を出来る丈しない考え方に立たなくちゃいけないと思いますがね。
岡田 テレビ・ドラマで、過去のドラマツルギーをふまえたものはかえって面白くない。ミュージカルにしてもお話らしい話がなくて、どんどん流したものの方が観ていて愉しいことは事実ですね。
藤田 ミュージカルにおける役割ということになって来るんですけれど、盆踊りの中継をやることは面白いと思います。もう一つそれを見せる方法において、ただ中継するだけでなしに、ある程度何か、つまり一つのシチュエイションを組むことによって、より効果的にそれを見せる方法があると思うんです。僕は情勢論においてテレビのミュージカルが大変悲観的であるにもかかわらず、やっぱりやって行かなければならないということは、結局、こういうところへ来ると思うんです。
(中略)
寺田 さきほどミュージカルの話が出たついでに、芸術祭の方向というものが気になって来たんですが、今年は盛んにミュージカルということがいわれている。そこで、一体、我我は、芸術祭の方向をどう考えるかということが、来年のことにしても、必要なんじゃないかと思うんですが……。
岡田 では、この辺で芸術祭の話をしましょう。
永 ここは芸術祭に参加されている方が多いですが、僕は去年まで芸術祭そのものをおかしいといっていたんです。今年になって、僕らのやっている「光子の窓」が参加するというので、去年までけなしていて今年参加するのはしゃくにさわるから僕丈おりたわけで、僕はテレビに限らず全然芸術祭そのものを、サルマタ祭があろうがリンゴ祭があろうが、それはいいとして、芸術にお祭をつけることはないと思う。もし、何かくれるんだったら、レギュラー番組に欲しいですね。
寺山 全く正論だし、絶対その通りなんですが、現在のようにね、僕も情勢論が好きだからいうけどね(笑)テレビに対してクリチックがないでしょ。新聞にのる何がしの無責任なオバサンの投書みたいなもので何となく価値が決る。それが十二通だから再放送しよう。それが現実でしょう。そこで、ある期間だけは見張ろうと流れをせきとめて、その中の水が澄んでいるか、濁っているか、みようという考え方そのものは本質的に間違ってはいないと思うね。ただ、情勢論では、何かとても変なものがいっぱいありますよ、その時だけ急に予算が何倍にも組まれたり、書く側でも、参加して何か貰えばそのあと原稿の注文がふえるだろうというような人がいたりね。だから、芸術祭をなくする一番いい方法は、テレビのちゃんとしたクリチックを見出すこと、批評が生まれることだと思うね。何がよくて何がつまらないかということをはっきりさせること、聴視率を信ずるのはいいけれど、オカミサン連中の投書を信ずるというようなことはいけないよ。ああいうのをなくさないことには、テレビの本当の批評は生まれないと思う。

岡田晋・江上照彦・永六輔・寺山修司・藤田敏雄・寺田信義「特集 ブラウン管の中の新しい視覚 PART3. 座談会 テレビドラマの可能性」『シナリオ』1960年12月号

 この番組をカラーで製作すると決まった時、演出担当の井原高忠氏はじめスタッフがまず考えたのは、黒白の「光子の窓」が売りものにしている、きびきびした画面転換が生み出す軽快なテンポをどうすればくずさずにすむかということ。カラー放送のメカニズムは黒白のそれよりずっと複雑で、手間がかかり、制約も多いからだ。たとえばカラー・カメラは背が高く、重量は三倍。したがって、目まぐるしく移動させることはできない。しかも黒白では同時に四台使っていたのが、カラーでは三台に減る。
 そこで小間切れに録画して、つなぐ方法をとることにした。三十分のカラー番組は普通なら、頭からぶっ通しか、せいぜい二回に分けてテープに録画している。それを十回か十一回に分けてとり、あとでつなぐ。
 またカラー放送では映像をとらえるカメラをはじめ、映像を電気信号にかえ、そして放送するまでに必要な機械、装置がどれも複雑で調整に時間がかかる。米国では最後のリハーサルから本番までの間を一時間あけ、機械の調整にあてているが「光子の窓」でも四十ー五十分はとり、完璧を期している。
 小間切れ録画と、ゆったりした時間どりの二原則でゆくことにした結果、徹夜しても一晩で、七、八分ぶんしか録画できない。十八日夜から録画しはじめ、ようやく三分の二をとり終わったところ。
(中略)
 技術担当者は「調整にはもっと時間をかけたいが、それでも、いままでの色彩がヌリ絵か安ものの色刷りみたいだったのにくらべれば、すっきりときれいで、断然よくなっている」と自信満々。これには二原則をつらぬいているため、同時にいくつものセットをぎっしりつめて組む必要がなく、光源と被写体との距離が十分になり照明の効果があがったことも原因している。この距離が短いと被写体が少し動いても、たちまち色が変化するほど、ライトの影響は微妙だという。
 カラー・テレビはデリケートで、また正直なのが悩みのタネ。疲れたハダは隠せないし、安物の衣装はあくまで安っぽくうつり、いくらベニヤ板に紙をはり絵具を塗っても本物の壁らしい質感は出ない。「デラックスなものだけがデラックスにうつる。もう少しセットに金をかけられれば……」と、スタッフを嘆かせている。

毎日新聞 1960年10月27日朝刊

 僕は日頃、日本のミュージカルを背負ってたっているような錯覚に襲われて困っているのですが、それがこうして諸先輩の間にはさまれて「書き方」なるものを書くにいたってはまさに発狂ものであります。
 何故、将来が有望であった僕がこうした道をたどるようになったかというと、ひとえにテレビでミュージカルをやろうと愚かな決心をしたことにあります。
 それほど、テレビ・ミュージカルはすぐれた才能を磨滅し、体力を消耗させ、大脳小脳を始め、中枢神経にいたるまでの器官を使用不可能な状態に追いつめてしまうのです。
 だから、僕はテレビでミュージカルをやることに極力反対するようになりました。
(中略)
僕は又考えました。芥川也寸志さんの言葉を思い出していました。
 「僕達の音楽は僕達の生活の中から導き出すものだ」
 アメリカのミュージカルはアメリカ人の生活の中から生れて来た、そして今も生れつづけているジャズで支えられています。
 しかし、日本のミュージカルを支える音楽はないのです。
 邦楽は生活と離れてしまっています。
 ジャズは僕達の生活から生れて来たものではありません。
 僕達は今こそ僕達の歌を僕達の生活の中から探し出すべきです。
(中略)
 「ショーより楽しい商売はない」これはアチラの言葉でした。お金のある国の言葉でした。
(中略)
 何故、僕が発狂する様な状態になったかということをコクメイに報告します。
 テレビでのミュージカル、ヴァラエティの聴取率は常に他の番組に劣っています。
 かつて「光子の窓」という番組は「やりくり天国(笑いの王国)」七〇%の裏で二%という聴取率を誇っていました。
 一週間かかって作りあげる番祖が数時間で作ったものにチャンネルを持っていかれてしまうのです。
 極端な例ですが現実なのです。
 この場合、二%の中でベストを尽すのがテレビでミュージカルを志す人の義務でしょう。
 しかし僕は、テレビでミュージカルをやる馬鹿馬鹿しさが骨身にしみていますから、同じベストを尽すなら舞台でやろうと宗旨を変えました。
(中略)
 テーマ、一番大切なことが一番後になりましたが、これはどのドラマにも共通することで、まず、ヒューマニズムの精神で……いったようなことをいうまでもないでしょう。
 ただ、テーマを深く探りさげることより、テーマから出来るだけ飛躍して、しばしばテーマを忘れさせ、そのテーマに戻った時あらためてそのテーマの印象を強くみせることが大切とだけメモしておきます。
 諷刺性も大切ですが、決して目先の諷刺におちいらないように注意したいものです。
(中略)
 最後に、テレビのミュージカルやヴァラエティということをいわずに、舞台、映画、なんでも「ミュージカルは楽しいんだ!」という運動の展開が必要だということを力説したいと思います。
 「楽しいものを作ればいい!」
 それだけでは足りないと思うのです。誰もが自分の生活の中から自分の歌をみつけだすような、そんな気分になるような何かを……。
 今こそ、日本にミュージカルが育つかどうかの瀬戸際なのです。
 テレビでの「書き方」など本当は先の先のことではないでしょうか。
 書く前に、又は、書き乍ら、「何か」をしてほしいと思います。お願いします。

永六輔「ミュージカル、ヴァラエティの書き方」『現代テレビ講座 第1巻』

 (前略)作家のほうはですね、初期の岡田憲和、それから、キノトール、三木鮎郎、永六輔、といった人たちです。この人たちとの共同作業で、お互いにもう、それこそ夜も寝ないで工夫しあって、ああやったらいい、こうやったらいいって、持ってる才能を一所懸命しぼりだして作った。
 ここで日本のバラエティ番組の構成というものができあがったんですね。それまでは、お手本というものはなかったわけですから。

井原高忠『元祖テレビ屋大奮戦!』

 バラエティ番組の系譜は、一つは永六輔が『光子の窓』から抜けて、NHKでやった『夢で逢いましょう』へ行き、もう一つは、僕の番頭さんとしてずっとフォローしてくれてた秋元君が、ロイ・ジェームス司会の『魅惑の宵』って番組を経て、『シャボン玉ホリデー』で開花させる。
(中略)
 そりゃ、下敷きに『光子の窓』があったりなんかしたって、それは当たり前のことなんで、僕の『光子の窓』だってなんだって、全部アメリカの真似をして発生してるんだから、下敷きがあることは当たり前。
『光子の窓』の構成にしても、さっき言ったように、三木鶏郎門下の、三木鮎郎、キノトール、永六輔といった作家たちと共同作業で練りあげていったものなんですから、このノウハウは別に誰のものでもないと思うの。だから、その一員であった永ちゃんが抜けて、そのまんま、NHKで『夢で逢いましょう』をやるんだけど、それはそれでいっこうにかまわないと思う。
 なんで永ちゃんが僕とたもとをわかったか、ということになると、これはまことにくだらないんだけど、安保騒動です。あの頃、岸内閣を倒せ、というデモ隊の赤旗が岸さんの家のあたりを取り巻いていて、永ちゃんは何とそっちへ行っちゃったの。それで僕んところに台本が来なかったってことがあって、喧嘩になった。

井原高忠『元祖テレビ屋大奮戦!』

30日夜NTVのミュージカル「光子の窓」は、(中略)カラーで色そのものの楽しさを満喫するほどには脚本(三木鮎郎、キノトール)がさえないのが残念だが、ふつう一般のレギュラー番組みを芸術祭に参加させようとした意図自体はわるくない。四十四分。演出・井原高忠。

読売新聞 1960年11月2日朝刊 テレビ週評

 「光子の窓」の演出家井原高忠氏はつぎのように述べている。
 "「ミュージカル」(と称される)系列に属するテレビ番組を演出しようという人は、絶対に音楽の素養を必要とする事はいうをまたない。音楽的に素質のない者が、音楽番組を担当、演出する事は、結果的に見て不可能である事は、すでに明らかである。だからドラマの演出家が片手間にミュージカルと称するものに手を出すなどはもっての外でありそれらが、音楽番組を、ひいてはミュージカルをも毒するものである。" (ダヴイッド社、現代テレビ講座3巻)
  〈演出家〉の問題ということにこの発言はなっているが、〈ミュージカル〉というものについての一般的な捉え方が、過不足なく現わされていると思う。 〈ミュージカル〉はたしかに〈音楽番組〉である……〈音楽〉のない〈ミュージカル〉は考えられない……結果としては全くその通りだが、最初の姿勢として、右のような捉え方は果してまちがってはいないのだろうか? ミュージカルが音楽番組であることにあまりにも〈事大主義〉をふりまわしすぎてはいないのだろうか?
 テレビドラマの中にはスリラーやホームドラマや喜劇などがそれぞれの〈細目〉として参加している。実験的なドラマ……という〈細目〉もうまれているほどである。そして〈関係者〉は、その〈細目〉に従ってそれぞれの〈計画〉を立てる……テレビドラマが、ここでは小さな〈枠〉の中にはめこまれてしまっているのである。単なる〈名称〉だけでなく、こういう〈ねらい〉なら、こう〈なる〉べきであろう……という〈公式〉めいたものが誕生してしまっている……むろん、単にテレビドラマだけの問題ではなく、十一月二十五日放送のドキュメンタリー「日本一九六〇」においても、〈ドキュメンタリー〉とはこういうものである……という〈公式〉……〈予想形式〉から出発しているため、全体としてただの〈事件〉の羅列に終り、いわば「テレビ展覧会、事件の部」というようなことになってしまっていた。(これについての批判は別のところに詳しく書いた)
 ミュージカルにおいても、まず取り払わなければならないのは、安易な〈公式〉……〈予想形式〉である。井原高忠氏は、"ドラマの演出家は片手間にミュージカルに手を出すな"といい切っている。わたしは、このような〈あれ〉と〈これ〉という簡単な割り切り方……捉えかたを一般的に破壊したいのである。〈音楽〉か〈ドラマ〉か……という前提の上に立っての〈ミュージカル〉は、ますますそのイメージを拡散して行くだけではないのだろうか? 果してミュージカルはどこまでも〈音楽劇〉なのか?
 結果として〈音楽劇〉であっても、〈結果以前〉の姿勢においては、取り払わなければならないものはまず 〈音楽〉である。あるいは、実際にそくしていえば〈歌〉である。つまり、〈それ〉によりかかること……〈それ〉の立場を最初から大きく認めすぎていることである。〈関係者〉は〈形式〉を作るのではなく、ある〈表現〉をそこでおこなっていることは自明の理であろう。ドキュメンタリーという形式を作るのでなく、また、喜劇を作るのでなく、その以前に、不定形な〈表現〉の……〈枠〉の中への〈なだれ込み〉の〈精神〉がなければならないのはわかりきったことだろう……その〈表現〉で〈形式〉をねじふせることである。ミュージカルは音楽番組だから、ドラマの演出家は手を出すな……などという、ある意味では〈職業的〉な発言にわたしは反対したいのである。必要なのは、すべてに優先する〈表現〉に〈論理〉があるか、ないかである。
(中略)
 冒頭、井原高忠氏を〈攻撃〉するような運びをわたしはしたが、むろんその限りにおいては事実その通りなのだが、十月三十日に放送された芸術祭参加の「光子の窓」は、今度は反対に高く評価している。全部ではない。スポンサーが現われたりした最初のころのは語るに落ちたが、「演芸ごった煮」という泥棒がスポンサーとなった劇中劇が始まってから、一躍おもしろさがまし、わたしが見たかぎりのミュージカル〈的〉な番組の中では、他に例を見ないほどすぐれたものになっていた。なぜそうなのか?……つまりは、〈主題〉への集中が、自からの「光子の窓」を否定するようなことになっていたからである。この場合の〈主題〉とは〈ミュージカル〉である。井原高忠氏が日ごろの仕事の中で得た直観と、その上に立っての発言との集大成としての〈ミュージカル〉……作家は、自分でも気ずかぬ発見をその作品の中ですることがあり、また、そのようなことがなければ決して良い作品はうまれないのだが……(これはいささか常識論だが……)この日の「光子の窓」は、いくらかその〈発見〉をした作品となっていた。むろん井原氏は演出家だが、〈作家〉であることにかわりはない。つまり、井原氏の前記の「ミュージカル論」が、この「光子の窓」によってあざやかに裏切られていたわけである。「作品」の方が〈良質〉で、作家自身の思考がそれに追っつかない……(むろん、〈明日〉は追っつく……)というのは〈名誉〉なことなのである。作品にそくしていえば、「光子の窓」というヴァラエティショーの中で、〈ミュージカル〉をやろうという 〈決意〉が、この劇中劇の形をとり、本格的な〈ミュージカル〉への一つの糸口を捜しあてた結果になっていたといえよう。「イグアドノンの卵」という、「戦争か平和か」という単純な〈論理〉に通じるようなものが《イメージ》の素となっていたのは残念だが、仮面を使った良い思いつきとともに、〈ヨコ〉の効果を発揮している珍しい画面となっていた。ストーリーへの〈期待〉を忘れ、そのときどきの画面の〈イメージ〉を存分に味わえたのは、この種の番組の中で、実になげかわしいことだが……大変珍しいことであった。

内田栄一「正論 テレビ・ミュージカル」『キネマ旬報』1960年12月下旬号

 一九六〇年のカラーテレビは十二月二十日芸術祭の受賞作品が決定し、NTVの「光子の窓ーイグアノドンの卵」の色彩の効果について奨励賞が授けられた。理由は「困難なカラーテレビ技術を克服し、国際水準を上まわる色彩効果を達成した」というのだ。これが第一のヒットだろう。九月十日郵政省がカラー放送を正式に許可してから、九月後半の二週間に色彩技術が完成し、十月初めの二週間に美しい配色法が発見され、十月三十日には、この「光子の窓」が芸術祭にカラーテレビとして初参加した。それが国際水準を上まわる色彩として受賞したのである。(中略)二十三日には記念の再放送を行なったが、前と同じくケンランとした色であった。

読売新聞 1960年12月27日朝刊 カラー・テレビ評

 まず第一にあげられるのは、昨年秋の芸術祭で奨励賞を受賞した日本テレビの「光子の窓」によって代表される色彩美の完成である。「アメリカと同じ機械を使い、どうしてこんなにきれいな色がでるのだろうか」これは昨秋、日本テレビをおとずれたデビッド・サーノフRCA会長の言葉だが、この秘密である照明技術の進歩はめざましいものがあった。人物や画面を合成するクロマキーという特殊技術が同時に長足の進歩を示しているが、これも照明がキー・ポイント。

読売新聞 1961年9月11日朝刊 カラー放送この一年

#131 1960.11.6
「カメラ、カメラ、カメラ」
草笛光子、南利明、笈田敏夫、一竜斎貞鳳

#132 1960.11.13
「モジモジモジ」
旗照夫、松本弘子、小松礼子、真鍋賀子、竹部薫とダンサーズ

#133 1960.11.20
「それは人間だけがもっている権利です」
草笛光子、南利明、水谷良重、伊藤素道と楽団
※同日夜10時から午前3時まで第29回衆院選の開票速報を放送

#134 1960.11.27
「とんちんかんテレビ合戦」
草笛光子、伊藤素道とリリオリズムエアーズ

#135 1960.12.4
「ソワソワソワソワ」
草笛光子、伊藤素道とリリオリズムエアーズ 他

#136 1960.12.11
「鬼よ笑え!」
草笛光子、伊藤素道とリリオ・リズムエアーズ、旗照夫、沢たまき、有木山太 他

#137 1960.12.18
「これこそバラエティ!かな?」
草笛光子、リリオ・リズム・エアーズ

#138 1960.12.25
「光子の大パーティー」
最終回(カラー放送)
作:P・キノトール
出演:草笛光子、南利明、藤村有弘、伊藤素道とリリオリズム・エアーズ、由利徹、広瀬優、沢たまき、中島そのみ、坊屋三郎、岸井明、美川章子、有木山太、根岸明美、大橋巨泉、ハナ肇とクレイジー・キャッツ、ユセフ・トルコ、高島忠夫、小島正雄、岩井半四郎、柳沢真一、笈田敏夫、宇治かほる、旗照夫、三国一朗、藤原義江、トニー谷、南村侑広、富田恵子、徳川夢声 他
音楽:広瀬健次郎
演出:井原高忠

昭和三十三年五月十一日にスタート、二年半の長きにわたって好評を博してきたこの番組みも今夜はいよいよ最終回。そこで今夜はひさびさに出演する藤村有弘もまじえ、いままでにこの番組みに出演した人々四十数人を一堂に集めてはなやかにミュージカルをくりひろげる。
 光子の窓で秘密の一大パーティーが開かれるとあって続々と集まってきたゲストたちが、なんのパーティーか頭をひねる、といった趣向で展開する。

読売新聞 1960年12月25日朝刊

 スタート以来二年半にわたった日本テレビのミュージカル番組み「光子の窓」(日曜午後6・30)が十二月二十五日かぎり姿を消すことになった。
 この番組みは東宝テレビ製作室と日本テレビの共同製作によるもので、日本のミュージカルとしてはスマートな演出と明るい楽しめる内容で親しまれてきたが、ホステスの草笛光子が映画、舞台それに欧州旅行(一月中旬から一か月)などでスケジュールのやりくりがつかなくなり、東宝とNTVの話し合いで円満打ち切りとなったもの。
 NTV側では二十五日は、ちょうどクリスマスに当たるので「サヨナラ光子の窓」としてカラーで放送する。

読売新聞 1960年11月15日朝刊

【参考文献】
読売新聞縮刷版
朝日新聞縮刷版
毎日新聞縮刷版
『放送文化』1960年4月号
『キネマ旬報』1960年5月上旬号、1960年12月下旬号
『映画芸術』1960年5月号
『シナリオ』1960年12月号
飯島正(編)『現代テレビ講座 第1巻』
『ブレーン』1961年10月号
井原高忠『元祖テレビ屋大奮戦!』
キネマ旬報別冊 テレビの黄金時代
瀬崎圭二『テレビドラマと戦後文学 芸術と大衆性のあいだ』
北浦寛之『東京タワーとテレビ草創期の物語』
松山秀明『はじまりのテレビ 戦後マスメディアの創造と知』
荒俣宏『TV博物誌』
志賀信夫『テレビ番組事始』
野坂昭如『マスコミ漂流記』

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