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元教師・現SaaS企業人事が感じる、「学歴という呪い」の話

EventHubで、人事・採用担当をしている磯です!この記事は、EventHub Advent Calendar 2022 の4日目の記事です。昨日は中井さんの「複業で感じる3つの相乗効果」でした。こちらもぜひ!

さて、今回のnoteでは、私が教育業界からIT業界へキャリアチェンジをして、感じることが増えた違和感について、書きたいと思います。

はじめに

教育業界からIT業界へのキャリアチェンジをしてから早約2年。特にビジネスの社会で仕事をするようになって、感じることが多くなった違和感があります。それは、「日本には “学歴という呪い” がかかっている」ということです。少し議論を醸す内容ではあると思いますが、ぜひ少しでも必要な方に届くようにという願いを込めて、書いてみます。

自分のスタンスと価値観

パンチのあるタイトルにしてしまったので、まず自分の前提となっている私のバックグラウンドを明らかにさせておきます。私は中高時代を進学校で過ごしました。あくまでも私の主観ベースの話ではありますが、 中高学生時代は自分が有名大学に「出荷」される前の商品として検品されているような、そんな気分を味わっていました。(当時の先生方は非常によくしてくださいましたが) 

そんな学歴偏重な風潮に抗う気持ちで、高校卒業後は国際基督教大学(以下ICU)に入学をしました。ICUはリベラルアーツに力を注いでいる学校です。「受験」という意味においては、IQテストや論文に答える形式の入試問題に代表されるように、日本のいわゆる「受験」という言葉から想像される内容とは全く異なるスタイルを、建学当初から貫いている数少ない学校でもあります。各学年には約600名ほどの人数しかおらず、海外バックグラウンドやLGBTQ、異なる宗教などの多様な価値観を持つ友人たちとひたすら対話を通して学ぶというスタイルが主流でした。そのような環境で4年間を過ごしたため、「みんな違って、みんないい」という価値観を、腹の底から、信じるようになりました。

また、新卒のファーストキャリアで、認定NPO法人TeachForJapanからの派遣として、公立の中学校教員となり、あらゆる子どもたちと出会えたことも、この価値観をより強固にさせました。この内容については、昨年のnoteにもまとめているので、お時間があればぜひ読んでいただけたら嬉しいです。

中高時代の経験、そしてICU時代の環境、教師としての子供たちの出会いという経験があったからこそ、この記事で述べている思想は形成されたのだと思います。

学歴とは何か

まず、「学校」というシステムから考えてみようと思います。現在の私たちが想起する「学校」というシステムが広まったのは、19世紀の産業革命が起源になります。労働者階級たちが一斉に「読み書き」ができるようになる必要性があったので、いわゆる「一斉授業」というものが出現し始めました。簡単に言ってしまえば、「読み書きができる人間製造工場」が「学校」だったと言えます

日本においては「学制」の発布により19世紀後半に、これに倣ったシステムが導入をされるようになり、私たちがよく知る「偏差値」が導入されることになったのは1960年代のことです。「偏差値」とは、簡単にいうと「テストを受けた集団の中で自分がどれくらいの位置にいるかを表す数値」のことです。それまで教育評価活動があまり行われていなかった日本で、「偏差値」という概念は瞬く間に広がっていきました。そして特に高校入試・大学入試の中で、いまだに大きな存在感を放っており、一定の数値以上とされる学校が「高学歴」であると、一般的には見なされています。(*1) ちなみに、世界中どこをみても、この「偏差値」という概念があるのは日本だけだという点は着目すべき点だとも言えます。

要点を簡単にまとめると、あくまでも「学歴」とは、「日本社会が規定した人間製造工場」のプロセスの中で「テスト」の点数が高いか低いかという結果の産物にすぎないということになります。

(*1) : 昨今の大学入試制度は大きく変わりつつありAO入試などの導入比率が高まっているので、テストの点数だけで測られなくなる傾向にはあります。

学歴という呪い - 違和感の正体

誤解を招きたくはないので、強調して伝えたい点としては、「高学歴である」ということは、「テストの点数を高める、合格する」ことへの何かしらの努力の賜物であると思います。その努力は素晴らしいことです。また、高学歴である方が、現代社会においては有利であることが多いから、「高学歴を目指そう」というモチベーション自体を否定するつもりは毛頭ありません。

ただ、私が強く違和感を感じるのは、「XX大出身だなんて素晴らしいですね」とか、「高卒出身の私にはとても…」とか、「あの人はXX大出身だからダメだよ」というような、学歴で自分や周囲の人の価値を規定する発言があった時です。なぜなら、こうした発言の意図には、どこか心の奥底で、「学歴 = 人間の価値」という、学校教育や、偏差値至上主義の中で刷り込まれた潜在的な思想が存在しているのではないかと思うからです。私はこの思想こそが、日本にかけられている「呪い」の正体だと思っています。

もう一歩踏み込むと、小学校から高校あるいは大学受験までの学校教育の中で育まれる「学歴 = 人間の価値」という呪いの上位互換として、今度は社会人となると「市場価値 = 人間の価値」という呪い、が生み出されているように感じています。確かに、どの学校に行き、誰と知り合い、何を学び、何をスキルとして得たかは、社会人としての市場価値に影響を与えます。そして高学歴であることと、市場価値が高まることは、一定の相関性があるとも思います。しかし、決して忘れてはいけないことは、「学歴 = 人間の価値」でないのと同じで、「市場価値 =人間の価値」ではない、ということです。

少し話は脱線しますが、これらの社会にかけられている「呪い」が、大きく表出したのが、2019年に起きた相模原の津久井やまゆり園での事件だと思っています。重度の障害を持つ方々の入所施設で、元職員の植松聖死刑囚が19名の入所者を殺傷したという凄惨な事件でした。植松死刑囚の動機は、「意思疎通の取れない重度の障害をもっている人は、生産性がなく価値がないため、社会には不要」という思想から派生したものでした。この植松死刑囚の思想は、前述の「学歴 = 人間の価値」「市場価値 = 人間の価値」という呪いと、大いに通ずる点がないでしょうか。私には、社会にかけられている呪いこそが、この事件の真犯人のように思えてなりません。

学歴という呪いの解き方

では、どうやって呪いを解けば良いのでしょう?

それはとにもかくにも、「人間としての価値は、みんな一緒だ」という前提に立つことであると私は考えます。前回の記事で記載した内容と重複しますが、市場価値は、あくまでもその人の 「have =何を持っているか」と「do = 何ができるか」によって価値づけされるものであって、その人の「being =ありのままの姿」 としての価値を決めるものではないのです。

大学を卒業していても、していなくても、給与が高くても、低くても、英語が喋れても、喋れなくても、仕事ができても、できなくても。ひいては、結婚していても、していなくても、子どもがいても、いなくても、その人のbeingとしての人間の価値は何も変わらない。市場が求める能力スキルに応じて市場価値は変化するが、人間としての価値は変わらず等しく平等であるという事実を、腹の底から、受け入れることだと思います。

まずは、自分自身がこの事実を受け入れること。
そうすれば、必然的に、他者を見るときも、人間の優劣を、学歴や市場価値に置かなくなると思います。

最後に

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
2022年12月5日がちょうど30歳となる節目だったので、ラスト20代のうちに、これまで感じることが多かった違和感を、なんとか言語化したいと思い書いてみました。うまくまとめられたか分かりませんが、必要な方に届いていたら幸いです。

さて、そんな私は今、EventHubで1人目の人事として採用活動や人事制度設計などに携わっています。採用側の立場において最も大切にしていることは、候補者の方の学歴や市場価値ではなく、「チームと共に、事業インパクトを創出することに、いかに貢献していただけるか」という一点につきます。そして同時に、候補者の方が会社が目指す方向性と、ご自身の目指す方向性が重なる部分を見つけて、EventHubという環境をうまく利用していただいて、ぜひキャリアアップの一助にしていただけたらと願っています。

そんなEventHubでは、シリーズAの資金調達を受けて、採用活動を強化中です!ご興味がある方いらっしゃいましたら、お気軽にご連絡ください!では、EventHubアドベントカレンダー5日目担当の浜口さんに、バトンをお渡ししたいと思います~😀 

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