見出し画像

「発信」があるということは「受信」もあるということ

私は「発信する」活動をしている。
SNSやその他媒体で、自分の考えや生活、知り得たことなどを、都度都度発信している。

仕事ではなく、好きでやっているので「活動」と呼んでいるが、
ネットの世界に「発信」する以上は、
仕事だろうが活動だろうが、
自分の中では一定のラインを持って文章を書くようにしている。

ネットの世界にて文章を書く、発信するということは、
完全非公開で書いていない限り、
自分の書いた文章を誰かが読む、ということだ。
自分の知り合いかもしれない。
まったく知らない人かもしれない。
FacebookやInstagramなど、公開設定ができるものであれば、知り合いのみが読むだろうが、
そうでなければ、全世界の人が読む可能性がある。

「発信」する人がいるということは、
必ずそれを「受信」する人がいる。

そもそも、
ネット上に発信している人は、何を求めて発信しているのか。
「誰かに読んで欲しい」と思って発信しているなら、それはちゃんと意味のあること。

しかし、
それを意識せずに、ただ頭の中を垂れ流しているのであれば、
もはやネット上に書く意味はない。
家でノートに書き出していればいいのではないか。
書きなぐりノートしかり、日記帳しかり。

昔はSNSもブログもなかったのだから、
みんな、考えていることは紙に書き出していた。
聞いて欲しい相手には、交換日記とか手紙とかで伝えていたはずだ。

「自分のフィードなんだから、自分の好きなように書いて何が悪い」
と言う人をたまに見かける。
別に悪くはない。
ただ、

何のためにあなたはネット上に公開発信しているのですか?

家でノートに書けばいいようなことを、
あえてネット上で発信する、その理由。

「誰かに読んで欲しい」
というのであれば、
それを多少なり意識した書き方があるのではないだろうか。

上にも書いたけど、
発信する以上は、それを受信する人がいる。

たぶん、そういうことを考えずに無意識にネット上に書きなぐっているのは、
「誰かに読んで欲しい」というより、
単なる「承認欲求」からくるものなんだと思う。

1億総発信時代、と言われて久しいが、
1億総承認欲求満たされたい時代、とも言えるのかもしれない。

承認欲求を満たすための「発信」
世の中の誰かに伝えたくて書く「発信」

例えば、育児の辛さや愚痴を発信するにしても、
その裏にある心が違えば、それらはまったく異なるものだ。
(心が違うと、不思議とそれが文章ににじみ出る)

誰もが自由に発信できる世の中だからこそ、
「発信」の意味をあらためて考えたいと思った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?