四月二日の深夜、あるいは三日の未明に高田比奈子は姿を消した。前日の夜に近所のラーメン屋で遅い夕食をとってから翌朝までのどこかのタイミングで、彼女はいなくなった。新聞配達も牛乳屋も近所でラジオ体操をしているおばさんたちも誰ひとり彼女の姿を見た者はいなかったし、その日は燃やすゴミの日だったのだが、アパートの部屋にはきちんと口を閉めたゴミ袋があとは捨てるだけという感じで置かれてあった。私が部屋に入ったのは四月七日、失踪から四日が経っていた。猫の餌と水のボウルも空だった。最初、猫はクローゼットのなかに隠れていたようだが、しばらく部屋のなかで手がかりを探していると現れて、足下にすり寄ってきた。私はうっすらと黴の生えたボウルを洗い、キッチンの戸棚で見つけたキャットフードと水をたっぷりと与えた。
彼女が出勤してこないことを不審に思った書店の店長は、三日の十時過ぎと十一時半頃に連絡を取ろうとしたけれど、電話は繋がらなかった。無断欠勤なんてする娘じゃないのに、と彼は心配して午後にもう一度電話をかけている。
「その時にはでも、ケータイの電源が切れていたんですよ」と、そう言ってスマートフォンの通話履歴を見せてくれた。
「それっきり電話しなかったんですか」
「ええ。河野さんとかに、あ、比奈ちゃんの同僚ですけど、彼女に電話してもらったりもしたんですが」
その言葉に嘘はなかった。
「絶対に何か事件に巻き込まれたんですよ」と、河野さんは言い張った。「だって、全然変わった様子はなかったし、来週のサイン会本当に楽しみにしてたのに」
比奈子の好きな作家の新刊キャンペーンだという。彼女は張り切ってPOPやフライヤーなどを手書きしていた。現物を見せてもらうと、確かにそこからは、著者に会えることを純粋に喜ぶひとりのファンの心情が感じ取れた。
彼女が最後に立ち寄ったラーメン屋でも話を聞いた。書店の片付けと事務作業を終えた彼女が入店したのは午後九時半頃で、同四十八分にはネギ塩ラーメンの画像がSNSに投稿されている。レジの記録によれば会計をしたのが午後十時二十三分。
ーーまたまたいつもの。
本人のそんなコメントのとおり、彼女は時々ひとりで訪れ、大抵ネギ塩ラーメンを頼むのだとアルバイトの青年が証言した。
「あ、でも一度だけ」と、隣にいた店長らしき男が思い出した。「あれ、確かバレンタインの日だ。バレンタインにラーメン食べにくる女性なんて少ないからよく覚えてるんだけど、あの子、誰かに電話してこれから会いに行くみたいなこと言ってた」
「名前とか呼んでませんでした」
「さぁ、そこまでは」
「工藤とか修とかしゅうちゃんとかそんな感じじゃなかったですか」
随分食い下がってみたけれど、彼は首を傾げるばかりだった。聞いていたとしても覚えてはいなかった。
工藤修は高校の同級生で、彼女の生活にちらつく唯一の男の影だ。
「そうですよ、ただの同級生です」
卒業以来彼女には会っていないと言った。彼の働く建設会社のロビーで、ひどく迷惑そうだった。
「じゃあこれは」と、私は一枚の写真を見せる。
まっすぐにレンズを見つめるスーツ姿の彼自身だった。シャンパングラスを手にごく自然に笑っている。
「あぁ、友人の結婚式ですよ。先月だったかな。そうか、あそこにいたんだ。いや、だからさっきのは、ふたりで会ったことはないっていう意味で」
そうしてこんな写真を撮られた覚えはないと断言した。工藤の話は信じられなかった。写真は彼女のSNSから拾ったもので、他にも何枚かの集合写真を見つけた。そのなかのどこにも比奈子は写っていなかったが。
ーー懐かしい人たち。愛しい世界。
「これを読んでどう思う」
「さぁ、そのままじゃないんですか。高校時代が懐かしいって」
「ところで、今年のバレンタインはどこで何を」
「家ですよ。こう見えても愛妻家なんで」
自分のことを愛妻家などと宣う人間にろくな奴はいない。いずれにしろ、彼からそれ以上なにかを聞き出すことは難しそうだった。
「でもあいつ、そんなに楽しかったのかなぁ、高校」
別れ際に工藤が言った。目立たない子だったと。
高校時代に特に親しくしていた友人もいなかったようだ。何人かの連絡先を手に入れて電話をかけてみたが、比奈子の近況は誰も知らない。それどころか、その存在自体をまったく思い出せない者もいた。そんななかでひとりだけ、SNSで繋がっていた@Yuki29という人物も同級生だったが、個人的なメールのやり取りなどは一切なかった。工藤の写真はどうやら、このアカウントから拝借したものらしい。
「比奈子は多分、招待されてなかったんじゃないかな」
当日の話題にものぼらなかったと、@Yuki29は残酷なことを言う。
そんな比奈子のSNSから読み取れるのは、規則正しい生活と一抹の孤独感、それに文学への愛情。カラオケや旅行に行くこともなく、映画や音楽の話もほとんど出てこない。料理は得意だったようで手料理の写真は頻繁に投稿されていたが、それを食べる人間の姿はなかった。例の結婚式を除けば、人物がどこにも写っていないのだ。パソコンはロックがかかっていて中身を確認できなかったが、SDカードに保存されたファイルも同様に無人の世界だった。だとすればやはり、例外とでも言うべきあの結婚式に重大な意味が隠されているような気がしてならない。新郎新婦はふたりとも同級生だったから、呼ばれなかったことがよほどショックだったのだろうか。
「招待状は出しましたよ」と、新婦は言っていたが。「住所録見てちゃんと書いたものあたし」
「間違ってたんじゃねえの」
新郎は比奈子のことを覚えていなかった。
念のため実家の母親に確認したところ、やはり招待状は届いていなかった。
「それがなにか関係してるんですか」
母親に報告できることは、まだなにもなかった。すでに失踪から一週間が経った。
私はもう一度、今度は彼女が歩いたであろう同じ時間帯に、ラーメン屋からの帰路を辿ってみた。街灯は明るく、ほぼ一本道で迷いようもない。事故の報告もなかった。彼女は間違いなく家には帰っている。もとより、室内に荒らされた形跡はなく、旅行鞄や財布、カード類も残っていた。口にこそ出さないけれど、母親が心配している結末はひとつしかなかった。
比奈子が楽しみにしていたというサイン会の当日、河野さんから電話があった。
「まだ見つからないんですか」
イベント用に取り寄せた新刊本の在庫がどこにあるのか分からないのだという。
「何か分かりましたか」と、工藤が連絡をしてきたのは意外だった。「嫁がさ、どうも誤解してるみたいなんです」
@Yuki29のアカウントには一枚の写真が投稿された。
ーーこの人を捜しています。
高田比奈子という人間がそこにいた。
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