汚れてしまった

もしも空気の綺麗な高原にでも住んでいたら、夜空はおそらく明るいと感じるのかもしれない。けれど、製紙工場の煙突が林立する町で育った耕太郎にとって、星のない夜の空は湿った綿布団のように息苦しいものだった。そんな夜より暗い山が、耕太郎の部屋の窓からよく見えた。夏の登山シーズンのことで、登山道に懐中電灯の光が連なっているのがはっきりと分かる。山頂から翌朝の御来光を拝む人々だ。ご苦労様、彼は呟いてアルミサッシの窓を開け、赤くて大きな懐中電灯を肩にかけるとそっと部屋を脱け出した。部屋は二階だったから、一階のトタン屋根に靴下のまま足をのせ、音をたてないよう這うようにその斜面を下りる。トタンが波板でなくて幸いだった。屋根の縁、雨どいのところまで来ると持っていた靴を道に放り投げ、古びたこの木造の家を取り囲んでいるブロック塀の上に渡った。そこから飛び降りるのも、逆によじ登ることも十歳の彼には容易い。泥棒にとっても理想的な造りだが、幸か不幸か盗まれて困るようなものはほとんどない。老婆と孫が倹しく暮らしているだけだ。



さて、そうして道に降り立った耕太郎の掌と白い靴下は、文字通り真っ黒に汚れている。屋根に付着した製紙工場の煤煙のせいだ。木材チップをパルプに加工する時に発生する硫化物の屁のような臭いとともに、それはこの町の隅々までを穢し続けている。彼はだが、靴下の汚れなど気にせず靴を履き、軽く両の掌をはたいてすぐに走り出した。亨との待ち合わせは二十二時、小学校の裏門。夏休みが近いせいでふたりとも昂っていたのかもしれない。

「漫画、読み放題だぜ」と、誘ったのは耕太郎だが、それほど漫画が読みたいわけではなかった。

「今週のジャンプもあるかな」

亨の期待にも応えられないかもしれない。月曜に発売になったばかりのものが、すでに回収されてそこにあるとは考えづらい。

「とにかく行ってみようぜ」

それでもふたりは、そう言って約束をした。



日中、あれほどキラキラとした飛沫をあげ、騒々しかった水面も今は黒く淀んで見える。耕太郎がそんなプールの横の抜け道を通って裏門に着いたとき、亨はすでにそこにいて、懐中電灯の光を彼に向けた。

「遅いぞ」

耕太郎は眩しそうに手を翳し、消せよ、と声を潜める。

「見つかったらどうすんだよ」

「見つかったらどうなるかな」

考えたくもなかった。ふたりは小学校を迂回して流れる水路に沿って歩き出す。ここの水は比較的澄んではいるが、コンクリートの壁面はヌルヌルとした藻のようななにかに覆われているはずだった。いつか水に落としてしまったサッカーボールを拾うために足を浸けた時のおぞましさを、耕太郎は忘れない。通奏低音のように二十四時間消えることのない工場の唸りが次第に大きくなって、ふたりはその流れから離れ、角を曲がるとそこはもうとある製紙会社の入り口だった。右手に門があるが、工場は道の両側にあってふたりの頭上をはしる幾本ものパイプで繋がっている。守衛の姿は見えなかった。ふたりは何食わぬ顔でそこを通り過ぎ、塀際を進んだ。工場の裏にまわるとトラックが出入りする門があって、夜間には閉ざされているが問題はない。錆びた鉄柵を握りしめ、耕太郎が先に乗り越える。人の姿がないことを確認して、亨も後に続いた。工場の明かりで夜が黄ばんでいる。口を開けたままの巨大な倉庫が見える。そこから溢れた古紙の山の、高さは五、六メートルもあるだろうか。単行本や雑誌、新聞と折り込み広告、包装紙、ダンボール、ノートに書類、手紙、葉書、およそ紙製品のありとあらゆるものがここに集められ、無造作に積み上げられているのだった。



一歩踏み出せば足下から崩れる無数の紙に、埋もれるようにしてふたりはその山を登り、転がり回って、本当はいったいなにを探していたのだろう。懐中電灯の光は遠くからでも見えるのが分かっていたので点けなかったが、それでも、ジャンプ、マガジン、チャンピオンといった漫画雑誌はすぐに見つけることができた。流石に最新号は見当たらなかったが、他にもコミックの単行本を何冊かを拾い集めていると亨が、押し殺した、けれどとても強い声で耕太郎を呼んだ。耕太郎は顔をあげ、亨を探した。探しているうちに、倉庫の陰から作業服姿の男が現れて動揺する。そんな時、亨は山のもっと上、山頂近くの窪みのような場所からひょいと顔を出し、まるで気づいていないようだ。誰か来る、隠れろ、頭を下げろと耕太郎は身振りで伝え、自分もまたそこまで一気に這い上がった。転がりこむ時に少し山が崩れたけれど、気にしている余裕はなかった。もっとも、これだけ雑然としていればちょっとしたことで自然に崩れることもあるだろう。

「見つかるとこだったぞ」

耕太郎の言葉には耳を貸さず、享は何故か、ひどく興奮している様子で、

「おい、これ見ろよ」と、広げてみせたのはカラーのグラビア。

「なんだよ」

「ほら、これ」

ふたりは頭を突き合わせてそれを見た。女だ。縄で縛られた和服の女。両足を梁から吊られ、はだけた着物と襦袢の奥に秘めやかな部分がうっすら透けている。紙の窪地に身を潜め、少年たちは無言だった。亨が懐中電灯を点けると、光のなかに浮かび上がった情景はさらに耽美で、耕太郎はしかし、どうにも落ち着かない。背徳や穢れなどという言葉はまだ知らなかったけれど、そんなものをきれいだと思う自分はきっとおかしいのだと。ひどく汚れてしまった。そう感じた。しかし同時に、どうしようもなく惹かれている。生まれて初めて、彼は欲望としか呼びようのない強烈な感情を抱いた。その芽生えを、はっきりと意識したのだった。




「うちの親、離婚するってさ」と、亨が話したのはその帰り道のことで、一学期が終わったら転校するという。

耕太郎は驚いたが、

「どこに」

他にはほとんどなにも訊けなかった。

「コウちゃん好きそうだからこれあげる」と、亨が笑いながら渡してきた時、捨てた振りをしてTシャツのなかに隠した例の雑誌のせいだろうか。

その夜、日付が変わる頃にふたりは別れた。変わってしまったのは日付だけではなかった。


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