ハワイから一番遠い場所

ハワイに行きたいって言ってたね。でもいま君は、その憧れのハワイから一番遠いところにいる。ほら、よく地球の裏側って言うでしょう? 日本の、例えば埼玉あたりの玉ねぎ畑を真下にずっと掘っていったらブラジルに出るとか。そういえば昔、どこかの阿呆がそのブラジルの、リオで開催されたオリムピックの閉会式で、地球の地殻からマントル、外核、内核と掘り進み、さらにまた反対側の内核、外核、マントル、地殻を一直線に突っ切って登場するというパフォーマンスを披露して失笑を買ったことがあった。しかもコンピューターゲームのキャラクターの扮装までして。いっそ地底奥深く煮えたぎる溶融鉄で焼かれてしまえばよかったのにと思うほど、あれは恥ずかしかった。ちなみに、東京の地面を約一万二千八百キロメートル掘っていくと、ブラジルに近いといえば近いけれど、そこはウルグアイ沖の大西洋で、せっかく地上に出たと思ったら一瞬にしてトンネルは水没する。そういう理屈で考えると、ハワイから最も遠い場所は、つまりハワイの対蹠地はアフリカ大陸、ボツワナあたりです。


もっとも、君がいるのはもちろんボツワナではない。ボツワナには多分、たとえずっと故障中のものだとしても、ウォシュレットはない。いや、高級ホテルにはもしかしたらあるかもしれないが、それにしてはひどく不潔な感じがする。なにもかもが湿っている。ボツワナは乾燥地帯だと聞いているし、亜熱帯だからそんなに震えることもないだろう。君は蛍光灯の光のなかでとても寒そうだ。寒さで、あるいは濡れた下着が不快で目を覚ましたところだ。便器に座り込んで、いったい何があったのだ。黴が生えたタイルの目地を見詰めたまま、前かがみで、立ち上がれそうにない。よく見ると、ビールの空き缶がふたつばかり転がっている。ほとんど空になったウィスキーの小瓶と食べかけの焼きそば弁当もトイレットペーパーのホルダーの上にあるけれど、それも君の仕業なのか? いったいそんなところで何をやっているのだ。君はまるで、君はまるで、一本の管、環形動物のようではないか。


早くそこから出た方がいい。今からでも遅くはない。再びハワイを目指すのだ。そうこうしているうちに、誰かがほら、扉をノックする。もしかしたら、もう随分前から扉を叩いている人がいて、その音で君は目を覚ましたのかもしれない。おそらく、公園のトイレだ。見覚えがあるでしょう? そういったタイプのものでも、設備だけは随分と立派になった。管理の方も行き届いていてくれたらいいのだが。いや、そんなことを言っている場合ではない。外で待っている誰かは緊急事態かもしれない。子供の頃から胃腸の弱い君ならその誰かの気持ちが分かるはず。とにかく早く、そこを譲るのだ。

「はーい」と、まるで邪気のない三歳児のように君は返事をする。

ところが、扉の外から舌打ちが返ってきて、それで様相は一変する。君は舌打ちが嫌いだ。駅のホームで人身事故のアナウンスに舌打ちををする人間を見ると突き落としたくなる。だからといって、意地でもそこから出ないというのはいかにも幼稚で、屈折している。誰のためにもならない。


だとしたらやるべきことは明らかなのに、君は徐にポケットを探り、スマートフォンなど取り出して誰に電話をするのだ。やめておいた方がいい。もう、というよりまだ、ほとんどの真っ当な人間は眠っている時間だ。案の定、呼び出し音は途中で切れる。かけなおすと断ち切られる。そうまでして、君は誰に連絡をとろうとしているのか。何か伝えたいことでもあったのか。今更誰かに縋ることはできない。君を、そして扉の向こうの誰かを救えるのは君自身だけだ。ようやくそのことに気づいたのか、君は大きくひとつ息を吐いて立ち上がる。立ち上がろうとして、よろよろとタイルの上に崩れ落ちる。我知らず笑いがこみあげるが、喉の奥に引っかかってしまってうまく吐きだせない。喉が乾いている。水が欲しい。水が飲みたい、と君は思う。また扉が何度もノックされる。あるいは、切羽詰まった誰かが蹴りつけているのかもしれない。

「早くしろよ」と、急かされて君はさらに苛立つ。

それでも、君は精いっぱいの努力をして、もう一度、今度はちゃんと立ち上がる。次はなんだ? 辺りを見渡して、何かを探している。焼きそば弁当の容器の下にそれはない。足下で空き缶が転がる。君は混乱し、動揺する。ジャージの股間が濡れているのに気づいたからだ。それ以前に、何故こんなよれよれのジャージなど着ているのか。そうしている間にも、事態はいよいよひっ迫する。

「早くしてくれ」
もはや懇願に近い。

わかってるよ、と君は呟く。君は君で焦りが募っているのだろう、必要以上に大きな声になった。
「こっちだって急いでんだよ」

飛行機に乗り遅れそうなのだと。なるほど、パスポートでもお探しか? 君のパスポートならもう二年も前に失効している。時は流れている。そしてとうとう、扉一枚隔てて誰かが絶望する。それはきっと、世界の終わりのような絶望だ。

いま君がいるのは、そういう場所。




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