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マルガリータにはまだ早い

午後六時、街はまだ明るい。ドアが開くと若葉の色をしたその光と喧騒が薄暗い酒場のカウンターまで届いた。バーテンダーには入ってきた男の顔は見えなかったが、光の帯のなかに漂う細かな埃を眺めながら、いらっしゃいませ、と声をかける。やがてドアが閉まり、いつもの仄暗い、寂然とした空間が戻ってくる。男は四十代、黒っぽい麻のジャケットを羽織り、硬い靴音を響かせてフロアを横切り、カウンターに近づいた。ウェンジの一枚板の手触りを確かめるように撫でるその客に、バーテンダーは中央のスツールを勧める。

「なにになさいますか」

「メニューはないのかな」と、低いけれどよく通る声だった。

「申し訳ございません」

男はバーテンダーの背後の壁を天井まで埋め尽くしたボトルをざっと見渡して、

「ラテンジャズだね」と、言った。

控えめにかかっていた音楽に耳を澄ませていたのだった。

「はい。キューバの」

「じゃあなにかラテンっぽいものを」

男はそう言ったあとですぐに続ける。マルガリータ以外で、と。

「マルガリータは駄目だ、まだ早い」

バーテンダーはもちろん、理由を訊ねるようなことはしなかった。

「ダイキリはいかがでしょう」

「いいね」

「フローズンにもできますが」

「いや、ごく普通の、オーソドックスでよく冷えたやつを頼む」

「かしこまりました」

サンティアゴ・デ・クーバのカルタブランコと生ライム、砂糖を少々。バーテンダーはそれらをシェーカーに注ぎ、氷を入れ、蓋をしてシェイクする。これがバーテンダーにとってその日最初の一杯だった。一点の曇りもない出来のダイキリが客の目の前でカクテルグラスに注がれる。

「サンティアゴのラムとは心憎いね」と、うっすらと汗をかいたグラスを見詰めて男は言った。

「ダイキリ鉱山のあった場所ですから」

「うん。美味い」

バーテンダーその言葉に対して礼を言い、使った器具を片付けた。ラムのボトルだけはカウンターに残しておく。

「ところで、君は知ってるかな」

シェーカーをクロスで拭きながら見ると、男はダイキリを飲み干すところだった。ショートカクテルを三口で、こんな客ばかりだったらいいのにとバーテンダーは思った。

「なにを、でしょう」

「私が今日、ここにきた理由だよ」

バーテンダーは失礼にならない程度に改めて男を観察する。初めて見る顔だった。少なくとも、以前に訪れたことのある客ではない。

「いえ。分かりません」

「だろうね。次はこれをロックで頼む」

そう言って男は、カウンターの上のボトルをカクテルグラスを持ったままの手で指すのだった。

「ヒントは今日、五月二十七日という日付だ」

「もしかして、遠藤さんのお知り合いですか」

「何故」

「今日はその、彼の誕生日なので。後で顔を出すはずです」

男はそれを聴くとさも可笑しそうに唇の端を持ち上げ、

「違うな。でも、誕生日おめでとう、と伝えておいてよ」

その時、またドアが開いた。もう外の光は射し込んでこない。街はすっかり夜の装いで、道行く車もライトを点けている。

「いらっしゃいませ」

最近通ってくるようになった若い女で、近所の歯科医院で受付をしている。

「マスター、モヒート」と、彼女は先客の席からスツールをふたつ空けて座った。

「了解」

「あと、なにか食べたいな」

するとそこで、ふいに男が口を挟む。

「つまみもあるの」と。

「ええ、まぁ、簡単なものしかないですけど」

バーテンダーの言葉を女が引き取った。

「でもここのチリコンカン、とっても美味しいんですよ」

「そう。じゃあ、私はそれをもらおうかな」

「じゃああたしも。マスター、チリコンカンふたつね」

バーテンダーは頷き、カウンターの下の冷蔵庫からタッパーを取り出したがまずはモヒートだった。スペアミントと生ライム、砂糖をグラスに入れてすりこぎ棒でそれらを潰し、そこにハバナクラブの3年、氷を入れてソーダで満たす。

「よくいらっしゃるんですか」

「いや、実は今日が初めてなんです」

ありがちなそんな会話の始まりを追いかけながら、仕上げにアンゴスチュラビターを数滴垂らし、ストローを挿したモヒートを女の前にそっと置いた。バーテンダーはそうしてカウンターの奥に移動する。厨房というほどの設備はなかったが、ガスコンロとオーブンレンジだけは用意されていた。彼女がなにか聞き出してくれればいいと、バーテンダーは密かに思った。同時に、男から離れられることで少しほっとしている。男にはどこか、人に緊張を強いるような雰囲気があった。

チリコンカンは仕込んだものがタッパーのなかに保存されていて、それを雪平鍋に移して火にかける。ゆっくりと時間をかけて温めた。幸いなことに、ふたりの客の会話は弾んでいるようだった。時折、女の笑う声が聞こえた。バーテンダーは最後にチーズを溶かし、出勤の途中にいつものパン屋で仕入れたバゲットを添える。

「そうなんですか、びっくり」と、女が声のトーンを高めた。

「本当ですよ」と、男は穏やかに笑っている。

バーテンダーはふたりそれぞれに、ナプキンで包んだフォークとチリコンカンの皿を出した。料理からは温かな湯気と香辛料の香がたち上り、

「確かに美味そうだ」

男は女に向けていた笑みをそのままバーテンダーに移したが、それはデフォルメされた仮面のようだった。

「熱いですから気を付けて」

「気を付けるのはマスターの方かもよ」

妙に興奮した口調で女が言った。しかも笑いながら。

「どういうこと」

「こちらね、マスターに復讐しに来たんですって」

彼女は笑い続けているが、バーテンダーにはそれが冗談とは思えなかった。

「どういう意味ですか」と、男に訊ねる。

「分かるでしょう」

「いえ、まったく」

カウンターを挟んだそんなやりとりを聞いてようやく女は静かになった。

「本気、なんですか」

「だからさっきからそう言ってるでしょう」

睨みつけられて、彼女は体を強張らせる。

「じゃあマルガリータを」

男はあくまで冷静だった。

「テキーラはマリアチのゴールドで。塩は別添えで頼むよ」

バーテンダーはそれを聞いて思わず体を退いた。背中が棚に当たってボトルの触れ合う囁くような音がする。

「さすがバーテンダー、酒の注文の仕方は覚えてるんだな。命日は忘れても」

突然、女が飛び跳ねるように立ち上がり、その弾みでスツールが倒れた。金属の背もたれがフロアで跳ねまわったが、男たちはどちらも驚いたりはしなかった。微動だにしない。互いに目をそらせないまま、次に起こることを静かに待っている。

「まさか」

バーテンダーの震える声は、どこにも届かなかった。


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