その前夜

レバーの美味い駅前の焼き鳥屋のカウンターで飲んでいると、ふいに大きな舌打ちが聞こえた。舌打ちほど人を嫌な気分にさせるものはない、と見渡してみれば、どうやら隣の、白髪まじりの男が店の天井近くに据えられたテレビのニュースに反応したようだった。

「なんですか、やめてくださいよ」

渉の言葉に男は向き直り、まっすぐに目を合わせた瞳が白く濁っている。渉は目をそらすことなく、

「舌打ち」と、補足する。

六十代だろうか。襟元が黒ずんだ白いワイシャツ、ノーネクタイ、痩せ細った首の皮に疲労が溜まって見えた。男はそこで大きな溜息を漏らし、

「これは失礼」

力のない掠れた声で素直に詫びられたら、渉もそれ以上からむつもりはない。もういいですと、男に仕草で示してからホッピーの「なか」をお代わりしようとしていると、

「ところで、おにいさんは幾つですか」

男が訊ねるのだった。話のきっかけを与えてしまったようで、渉はすでに面倒くさくなっている。あえて突き放した。

「歳ですか。二十四」

放っておいてくれ、という思いはだが、男には伝わらなかったようだ。

「そうですか。戦争にだって行けますね」

「戦争なんて行きませんよ」

「でしょうね。行きたくないですよね。申し訳ない、全部私たちのせいだ」と、男はまたテレビに視線を戻した。

憲法の解釈を変更して集団的自衛権の行使を容認するという、長いニュースがまだ続いている。

「さっきの舌打ちはこれですか」

男はテレビ画面を睨みつけたまま、渉の質問には答えずに別の話を始めた。

「私は十九歳でした。当時はベトナム戦争が激しくなっていてね、ベトナム戦争、知っていますか」

「名前だけ」と、そこで渉は、ようやく酒のお代わりを注文する。

「ちょうど四十五年前ですよ。ああ、四十五年前の今日だ」

六月二十八日、と、それは男にとってかなり重大な発見だったようで、口調は俄かに昂ぶる。

先輩に勧められて見様見真似で始めたギターはまだFの音もきれいに出せなかった。例のあれ、人差し指で全部の弦を抑えるバレーコードってやつに苦戦しているような初心者なのに、今から思えば恐れを知らぬというか。そんなふうに男は話し続けるのだ。

「新宿駅の西口に毎週末、数千人の学生や若い社会人が集まって歌を歌うんだ。私もギターを抱えて行ったよ。ものすごい熱気でね。『勝利の日まで』とか『友よ』とか、『自衛隊にはいろう』なんかを皆で歌いながら、ベトナム戦争や当時の政府に抗議する平和的なデモだったんだよ。それがあの日、六月二十八日、突然機動隊が催涙ガスを撃ち込んできて」

男はそこでふっと言葉を切り、筋と血管の浮き出た痩せた両手で顔を覆った。そのまま顔を洗うように掌を動かしながら、鼻をすする音がする。

「おじさんもやられたんですか」

渉が訊ねると、男は顔を隠したまま頷いた。

「催涙ガスって」どんな感じなのかと、それは純粋な好奇心だったが、男のことが少し心配にもなった。「大丈夫ですか」

それでようやく、男は両手を顔から外し、カウンターの上に丸めてあったおしぼりで目元を軽く拭った後、グラスに残っていた僅かなビールを飲み干した。ニュースはすでに終わり、テレビでは横一列に並んだタレントたちが笑い続けている。酔客たちで混みあった店内にうっすらと充満する焼き鳥の煙を指してのことなのか、

「あれはこんなもんじゃない」と、気を取り直した男が言う。「昔、リヤカーにのせた噴霧器で町中を消毒してまわってたのを知ってるかな。目の前が真っ白になって何も見えなくなるんだけど、催涙ガスはもっとひどい。毒薬だよ。目がピリピリとして本当に涙が止まらなくなるんだよ。鼻の奥や喉も痛くなるしね」

そんななか、ジェラルミンの楯を構えた機動隊に追いかけまわされて恐怖だった。逃げまどいながら、それでも歌はどこかで聞こえていた。その辺にあった植木鉢や空き瓶を投げて応戦する仲間たちもいたけれど、私にはそんな余裕はなかった。安物だったけれど、ギターもなくしてしまった。やっとの思いで地上に出ると、そのままひとりで下宿へ逃げ帰った。先輩が逮捕されていたと知ったのは翌朝のことだ。混乱のなかで踏みつぶされた先輩の左手は二度とギターを弾けない…

畳みかけるような男の声がふっと消える。店の喧騒が戻ってきた。

「まったく、情けないよ」

そうして男は空っぽのグラスと皿をきちんと揃え、カウンターの上をおしぼりで拭いた。

「帰るんですか」

「そうだね。明日、ちょっとやらなきゃいけないことができたから」

その言葉に不穏なものを感じたのは気のせいだろうか。いつの間にかすっかり話に引き込まれていた渉だが、なにか肝心なことを聞き忘れているような気がする。

「ちょっと待って」

男はすでに立ち上がり、伝票を手にしていた。

「気分を害してしまって済まなかった」

「そうじゃなくて」

そこで渉は、ようやく思い至る。

「そうじゃなくて、あの、さっき、最初になんで謝ったんですか。自分たちのせいだって」

白く濁った眼で、いったいどのくらいの視力が残っているのだろう。見つめあったところで、渉には男の表情がまるで読めなかった。

「明日なにをするつもりなんですか」

「今度は逃げないよ」

男は最後にそう言って、じゃあ、と小さく手をあげた。カウンターと壁の間の狭い通路を歩いていく男の背筋は不自然なほどまっすぐに伸びて力強い。追いかけていって引き止めるべきではないかと渉は一瞬迷い、腰を浮かしかけたけれど結局、なにもしなかった。ホッピーはすっかり薄まってしまって、炭酸も抜けている。目の前にあるその生温い酒にも、渉はもう口をつける気にはなれなかった。



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