おばあちゃんのズボン

「はとぽっぽ」のおばあちゃんちからおばあちゃんがやって来たのは夏休みの終わる頃だった。少年の親戚は住んでいる町の名前で、つまりは沼津の、熱海の、小田原の、といった具合に呼びならわされていて、だとすればおばあちゃんちは長岡の、ということになるはずなのに、何故「はとぽっぽ」なのかは不明だ。母親の実家で鳩を飼っていたことはないし、特に鳩の多い地域だったわけでもない。その年一家は、正月もお盆も長岡には行かなかったので、少年がおばあちゃんに会うのは随分と久しぶりだった。こんなに小さかったかな、という印象は、彼の身長がぐっと伸びたせいかもしれない。開け放している居間の掃き出し窓の外に立ったおばあちゃんは、白く膨張した強い日射しに浸食されてしまいそうだ。割烹着姿のおばあちゃんしか見たことのなかった少年は、木綿の茶色っぽい着物を着て、帯は紫の小紋という外出着のその老婦人を新鮮に見た。

「ひとりかい」

おばあちゃんはその窓の桟に腰を下ろし、抱えていた麻の葉繋ぎ柄の風呂敷包みを傍らに置いて言った。

「えらい大きくなった」

「どうしたの」と、少年は挨拶を少し間違えた。まだ七歳だったし、ちゃんと挨拶しなかったのはおばあちゃんも同じだ。

「お母さんは」

「買い物」

父親のことは訊かれなかった。まだ仕事をしている時間だったが、そうでなくても、父親の帰りはいつも深夜になる。

「ひとりで留守番かね」と、おばあちゃんは感心したような、呆れたような微妙なニュアンスで言った。

少年にとってはいつものことだった。何をしていたのか、と訊ねられて、

「宿題」と、ちゃぶ台の上に広げたプリントを目で示す。手には鉛筆を握ったまま。

少年はおばあちゃんのことが好きだった。お年玉ははずんでくれたし、お手製のちらし寿司も絶品だった。母親に「何か食べたいものある」と訊かれれば「おばあちゃんちのお寿司」と答えるくらいに。けれどこの時は、小田原のおねえちゃんだったら宿題を手伝ってもらえたのに、などと身勝手なことを考えてしまう。

おばあちゃんは着物の袂からハンケチを取り出して、顎から首筋あたりの汗を拭った。

「学校は楽しいかね」

「うん」

少年の返事に頷いたおばあちゃんの短めの白髪は襟足あたりで刈り揃えられ、その髪型は少年にそっくりだった。それきり黙ったまま庭を眺めているおばあちゃんが気になって、少年は掛け算のプリントに戻ったがなかなか集中できない。鉄の風鈴が時折、面倒くさそうに鳴った。

 庭は南側の旧街道に面していて日当たりが良く、その分雑草が伸び放題だった。物干しざおを支える脚を囲んでセンダングサが勢いを増していたし、咲き始めた金木製は剪定が必要だろう。少年は時々、庭の草取りをして僅かばかりの小遣いをせしめることがあったが、最近は暑さのせいでとてもそういう気にはならなかった。草取りをしてと、何日か前に母親に頼まれていたことを思い出した。

「お母さん、遅いねぇ。いつもどこまで行くの」

「えっと、病院かもしれない」と、少年は何故か少し、動揺した。

するとおばあちゃんが驚いて振り向く。

「病院って、あの子、どこか悪いのかい」

「えっと、やっぱ買い物だ。二丁目のスーパー」

納得していない様子のおばあちゃんを少年は持て余していたが、そのうちにふと、どうして今まで思いつかなかったのか、

「あ、おばあちゃん、麦茶飲む」と、つい声が弾んだ。

「ああ、いただこうかね」

少年は嬉々として台所へと走り、冷蔵庫のなかのポットからコップに麦茶を注いで運んでくる。おばあちゃんはそれを美味しそうに飲み干した。

「ありがと」

そう言って徐に、持ってきた風呂敷包みを解きながら少年の名を呼び、中から一本のジーパンを広げてみせた。

「おじさんが履いてたのを直したけど、寸法分からないから」

ちゃんと履けるのか、似合うかどうかとおばあちゃんは心配しているのだった。孫としては礼を言って喜び、さっそくそれを試着してみせるのが正しい行動だと分かっていたが、素直にそのように反応は出来なかった。

「僕の」と、訝しがるようにズボンを受け取って、両手で広げたまま硬直する。お尻の部分に鮮やかなひまわりのワッペンが縫い付けてあった。そもそも長ズボンは履かない。少年の小学校では皆、一年中半ズボンを履いているのだった。長ズボンなど履いて学校に行けば、バカにされるのは目に見えている。おまけにひまわりのワッペン…

「今は暑いからあとで履いてみる」と、言い訳をしながら、それでもちゃんと礼だけは言ったはずだ。少々時間が経ってからだとしても。

その時やっと、母親が帰ってくる。日中は鳴りを潜めていたニイニイゼミがまたそろそろ鳴き始める頃だ。スーパーのビニール袋のガサガサという音とともに庭先に現れた彼女は、

「お母さん、来てたの」と、言った。「なにかあった」

そうしてその答えを待たずに、息子が手にしているズボンに気づいてこう続けるのだ。

「あら、なにその野暮ったいジーパン。あなた、長ズボンなんか履かないじゃない」

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