The Empire of Light

マグリットの絵の前にひとりの男が佇んでもう随分時間が経つ。絵を傷つけるとか、ましてや盗むなどということを心配していたわけではないが、どうにも気になって仕方がない。ちなみに、展示室には休憩できるようにソファーも用意していあるのだが、彼は直立不動で小一時間もそうしている。歳の頃なら四十代後半、白髪の混ざり始めた黒髪は短く刈り揃えられ、服装もカジュアルなジャケットにデニムというごくありふれたものだ。美術館の展示室にいて何の違和感もない。だからこそ、他の客たちは男の存在を当然のように避けて流れていく。比較的混みあっていた時間帯には彼の周りで小さな渦が出来ていたが、閉館時間が近づいた今は客も疎らだ。

「この絵がお好きなんですね」と、近づいていって声をかけた。

「好き、というのとは少し違うかもしれません」

男はそう言って、横目で警備員の制服を確認したようだった。

「すみません、迷惑ですか」

「いえ、そういうわけではありません。ただ、あんまり長い間そうしていらっしゃるので」

すると男はやっと絵から目を離し、茶色がかった瞳をまっすぐにこちらに向ける。

「頭のおかしい人間だと思われるかもしれませんが」と、そうして躊躇いがちに、こう続けた。「この絵のなかに、私がいるんです」



マロニエの白い花の香もよく覚えている、と男は言うのだった。右端に描かれた薄明りの灯る二階建ての家でずっと暮らしていたのだと。

「妻と、娘がふたりいました。私は会計の仕事をして、決して裕福ではありませんでしたが、それなりに幸せだったんです」

父親が遺してくれたその家の間取りも分かる。一階にはキッチンとリビング、二階は夫婦の寝室と子供部屋になっていた。灯がついている背の高い上げ下げ窓がリビングで、お気に入りのロッキングチェアと暖炉がある。春とはいえ、まだ暖炉には火が入っていた。
「妻は奥のキッチンで夕食の準備をしていて、家中にミートボールのトマト煮込みの匂いが漂っていました。けれども私はその日、古い友人と近所のバーでビールを飲む約束があったのでフロッグコートを羽織って出かけたのです。もちろん妻はあまりいい顔はしませんが、それはまぁ、いつものことです。外に出ると、よく晴れた空にはまだ日中の光が残っていて、なのにマロニエの街路樹の下はもう暗い。街灯の明かりが滲んで見えたのは湿気が多かったのでしょう。バーまでは歩いて二十分ほどの距離ですが、そこには私の好きなトラピスト・ビールがあって、新鮮な牡蠣も楽しみでした。その時の私は、本当にただ、夕食前に友達とちょっと一杯やってすぐに帰るつもりだったのです。娘たちも十歳と七歳、まだまだ可愛い盛りでしたから」

そこでしばし口を噤んだ男と、ふたり並んでまた絵を眺める。男が暮らしていたという窓の明かりに目を凝らしてみるのだが、もちろん、人影など映るはずもない。俄かには信じがたい話だったが、

「それで、どうしたんです」

続きを聞かないわけにはいかなかった。

「バーで学生時代の思い出を肴に二、三杯、いや、四杯も飲んだでしょうか。でも、そのくらいで絶対に酔ったりはしません。いや、やはり酒のせいでしょうか。トラピスト・ビールは少し度数も高いですから」と、男はそう言って自らを嘲るように笑ってみせた。

「何かあったんですね。帰り道に」

事件に巻き込まれたとか。男には悪いけれど、そんなことを想像しながら訊ねたのだったが、

「いいえ」

男の横顔に先ほどの暗い笑みはすでになかった。

「何もありません。ただ、私は帰らなかった」

「帰らなかった…帰れなかった、のではなく」

「そうです。私は帰らなかった。バーからこの家に帰る途中にセンネ川という川があるのですが、その橋の真ん中あたりで私は立ち止まり、立ち止まってしまったらもう、それ以上足を進めることができなくなってしまったのです」

「何故です」

「分かりません。家に帰れば、温かな湯気をたてるミートボールのトマト煮込みと、少々口うるさいけれどよく出来た妻、それに柔らかな栗毛が可愛らしい娘たちが待っていて、それはもう私にはもったいないくらいの幸せだったはずなのに、私は、私は多分」
そこから逃げたのだ、と。

男は小さく息を吐いて、よろよろと後ずさりし、ソファーに座り込んだ。

腕時計を見ると、そろそろ閉館時間が迫っていた。最大の、そして根本的な謎について訊ねなくてはならない。

「しかしこの絵は、1950年に描かれたとあるのですが」

男は頷き、

「そうです。1950年の四月二日でした」と、断言する。「それから後のことは、あまり話したくはありませんね。バチが当たったんです。何もいいことはなかった」

「いや、しかしその時仮に三十歳だとしたら、今はもう百歳近い。あなたはとてもそんなふうには見えないし、それ以前に、ベルギーの方でもないようだ」

「私にも分かりません。私は東京から仕事でこの街に来たのですが、少し時間が出来たので気まぐれにこの美術館に立ち寄ったのです。それで初めてこの絵を見て」

記憶が蘇ったのだと男は言った。

信じられなかったが、そういうこともあるかもしれない。

閉館のアナウンスが聞こえている。
たまにはまっすぐ家に帰ろう。手料理も子供たちも待っていてはくれないし、女房はきっと迷惑そうに言うだろうが。
ーーあら、早いのね。
多少居心地が悪いくらいがちょうどいい。



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