椿と山茶花
「椿と山茶花の違いって判る」と、音もなく降る雨の庭を眺めながら、いたずらを仕掛けた子供のように女は笑いを堪えているようだ。
「ここにあるのは椿でしょ」
男は畳の上で体を起こし、座卓の上のもうすっかり冷めてしまったお茶を啜る。
「どうかしらね」
「そんなに似てたっけ、椿と山茶花」
部屋はもう薄暗い。八畳の和室で、床の間の花瓶にもその、椿だと思われる紅い花が灯めいて浮かんでいる。おそらく、庭木を一枝切ってきたものだろう。
「だってどちらも椿は椿だもの。ちなみに、それはごくごく一般的なヤブツバキ」
「じゃあ山茶花は」
女は所謂胎児の姿勢で横たわっていたのだったが、いま、力なく上半身を起こし、右の腕で体を支える。そのまま男の方を振り返ると、雨とはいえまだ昼の光がうっすらと溜まっている庭の逆光に、表情は塗りつぶされてしまいそうだ。ただ、滴のようなふたつの目が揺らいでいる。
「山茶花もあるわよ、庭に。探してみて」
小さな庭だったが緑濃い椿の生垣が見事で、男がいつか、散歩の途中で足を止めたのもそのせいだった。
「だけど山茶花はあれ、冬に咲くんじゃなかった」
「あら、よくご存じ」
「咲いてなきゃ流石に分からないよ」
じゃあ教えてあげる、と女は幽かに笑ったようだ。
「椿の花は半開きなんだけど、山茶花は花びらを大きく全開にするの。それからね、雌蕊に毛が生えてるのが山茶花ね」
「椿の方が慎ましいんだ」
「そうね。でも、椿は化けるのよ」
椿は霊木だ。怪談の類もいくつか伝わっているという。
「私の故郷ではね、男の人をハチに変えて食べてしまうのですって」
「椿が」
「そう、椿が」
恐ろしいな、と男は呟き、畳の上に脱ぎ捨てられていたセーターを女の膝に掛けてやる。そうして自分はジャケットを羽織った。
「やっぱりまだちょっと寒いね」
女はすぐに姿勢を正し、正座をしてそのセーターを頭から被る。しなやかな体の動きが、ニットのなかに隠されてなお、残像としてしばらく男の目に残った。
「雨、少し強くなったみたい」
言われてみれば、雨垂れの音が今は重く、途切れることがない。日はもう沈んだだろうか。雨が夜の色を重ねていく。
「ところで」と、この古い平家の一戸建てが女の実家だと思い込んでいた男は訊ねる。「故郷ってどこなの」
「北の方」
「ここで生まれたのかと思った」
床の間の柱に色褪せたアニメのキャラクターのシールが何枚か貼ってあるのを、まだこれほど暗くなる前に男は見つけていた。剥がそうとして、白い紙だけ残ってしまったあともあった。
「ここは借りているの。田舎者だからこんな家が落ち着くのよ」
椿ももともと植えられていたものだという。
「そうなんだ」
「ええ」
そして女は薄闇のなか、身の周りに散乱したものを集めて身繕いにかかる。
「お腹がすいた。何か食べましょう」
「でも」と、男は言う。「そろそろ帰らないと」
長い散歩になってしまった。
「そう」と、女が応える。
「雨が止むまで待っていたら、ハチに変えられて食べられてしまうかな」
「そうかもしれないわね」と、この時女は、ずっと堪えていた笑いを解放するように大きな口を開けて吹き出した。なにか淫靡な連想をしていたのかもしれない。けれどそれはあまり長くは続かず、
「やっぱりもう帰った方がいいわね」
それで魔法を解くように、女は立ち上がって壁際のスタンドを点ける。オレンジ色の照明に、止まったままの振り子時計が浮かび上がった。
「どちらかといえば私は山茶花でしょう」
帰り際に女がそんなふうに言ったのを、思い出しながら男は家路を歩く。春の雨はもう、ほとんど上がっている。
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