花束を君に

まるでパパ=ジョーのドレッドヘアのように過剰なほど緑豊かな大木はジャマイカの国花リグナムバイタで、紫の小さな五弁の花を沢山咲かせている。桜のように裸の枝に花が咲くわけではないので、満開かどうか判断するのは難しい。いったいこの一本にどのくらいの蕾がついているのか。いずれにしろ、遠目にも濃緑に紫が混ざって見えるくらいには「満開」のその木の下でふたりは珈琲を飲んでいる。ゲストハウスの中庭だった。

「でもやっぱり皮肉な話よね。ブルーマウンテンはほとんど日本の珈琲会社に売られちゃうなんて」と、彼女が言うのも無理はなかった。

宿の主人、クリスがホーローのカップで出してくれたのはネスカフェの顆粒にお湯を注ぎ、コンデンスミルクをたっぷり加えたもので、味は日本の缶コーヒーにそっくりだった。この国の人々が普段飲んでいるのがこれで、もっとも、クリスに言わせるとブルマンなどよりこちらの方が数倍美味いらしい。

「なんだか色々期待外れだった」

リグナムバイタの根元に茶色い猫が蹲っているのをぼんやり眺めながら言うと、

「あなたは期待し過ぎてたのよ。あたしはそれなりに楽しかったけど」

彼女は優しかった。

「ならよかった」

「本当よ」

ふたりは二週間前にキューバから入国して、この小さな島国をほぼ一周したあと再びクリスの宿にチェックインしたのだった。明日はキューバに戻るという夕暮れ時に、パパ=ジョーを待っている。

「あいつ、覚えてるかな」

「どうかな」と、彼女。



そもそも旅の始まりからして幸先悪かった。飛行機が着陸した時、モンテゴベイは雷雨に暗く塗りつぶされていた。最初の二泊だけ、せっかくだからと海辺のリゾートを予約していたから送迎のマイクロバスがあって助かったが、そのまま丸二日、雨は降り続いた。雨に煙るカリブ海と、時折、遠い水平線に音もなく稲妻がはしるのを眺めて過ごすしかなかった。コンシェルジェに訊ねると、乾季が終わりかけているのだという。オールインクルーシブのリゾートは流石に快適で、サービスも申し分なかったが、周辺には同じようなホテルが集まっていて散歩をしても面白くない。街からは随分と離れていた。それで三日目の朝、ようやく雨が上がると早々にチェックアウトをしてダウンタウンに移動し、レッドストライプのサインに惹かれて入ったバーの裏手にこのゲストハウスを見つけたのだ。

「大体全部あいつが悪い」と、あの夜のことを思い出しながら、その言葉はだが、もちろん本気ではなかった。

ふたりはようやく軟禁を解かれたかのように長い散歩をして帰ってきたところで、バーに立ち寄ってビールを飲んでいた。どこまででも歩いて行けそうなくらい気分がよかった。バーにはあまりコンディションのよくないビリヤード台があって、なんとなくキューを品定めしているといかにも重そうなドレッドヘアを頭にのせた男が近づいてきて言った。

「ビールを賭けないか」

それがパパ=ジョーで、その提案にのることにした。ナインボールなら少々覚えがある。

「大丈夫なの」と、そう言いながらも彼女も強く止めようとはしなかった。

「大丈夫」ではなかった。結局三連敗し、パパ=ジョーにギネスビールを三本奢ることになる。

「ラスタはギネスを飲むんだ」と、パパ=ジョーは嬉しそうにその瓶を空けた。「ここにほら、グッド・フォー・ユーって書いてあるだろ」

ラベルのコピーを指さし、茶色い歯を見せて笑った。冷たいレッドストライプが悪いのだと。冷えていないギネスは体にいいとしつこいくらいに繰り返した。途中でアプルトンのダークラムに切りかえると、今度はそんな強い酒は毒だと深刻な顔で忠告するパパ=ジョーに、好感を持った。ラムの樽を利用したテーブルに座って、その晩三人は友達になった。友達だ、と少なくともパパ=ジョーは言い、ボブ・マーレ―の生まれた山村、ナインマイルに行きたいというふたりに車を手配すると約束をした。




「でもパパ=ジョーが嘘をついたわけじゃないのよ」と、いつの間にか足下にすり寄ってきた猫を撫でながら、彼女は言う。

「確かに」

連日このくらいの時間になるとスコールがやって来たが、今日は大丈夫そうだ。リグナムバイタの枝に吊り下げられたぶらんこが微風に揺れている。藍を深めていく空にオレンジ色の雲が流れていた。

「噓つきはあのドライバーでしょ」

「そうだな」

翌日、パパ=ジョーが連れてきたドライバーもドレッドヘアの、ラスタだと名乗った。値段交渉をすると、自分もナインマイルに帰るところだからガソリン代だけでいいと言う。ふたりはパパ=ジョーに礼を言い、来週の金曜日、それがつまり今日なのだが、

「またここに帰ってくるよ」

するとパパ=ジョーは、

「いい旅を」と、仕事が終わったら必ず会いにくると言って握手をした。

だが、パパ=ジョーはまだ現れない。

甘ったるい珈琲で口の中がべたべたして、もうビールが飲みたかった。

「でももしかしたら、グルだったのかも」

全部ぶちまけてパパ=ジョーを問い詰めてやりたくなった。

ナインマイルまで山道を約二時間のドライブ。到着するとドライバーは正規のタクシー料金とほぼ同額の「ガソリン代」を請求したのだった。話しが違うといくら言っても埒は開かない。

「パパ=ジョーの友達だろ」と、それも切り札にはならなかった。

「誰だよ、そいつ」と、ドライバーは言い放った。「なんなら警察でもどこでも行ってみるかい。妥当な値段だぜ」

タクシーをチャーターしたと思って諦めるしかなかった。

旅の後半はずっと、どこかにその時の嫌な気持ちを引きずってしまっていた。それを吹き飛ばしてくれるはずのルーツレゲエも、すでにこの国では絶滅しているようだ。どこのクラブに出かけても、ステージにはドラムセットもベースアンプも用意されていない。一度だけ、ホテルのビーチでクラシックなレゲエバンドが演奏しているのに遭遇したけれど、客は観光客ばかりで興ざめだった。

「でもあたし」と、彼女が言いかけたその時、リグナムバイタの木の向こうにパパ=ジョーの姿を見つける。

「来た」

錆びた鉄を軋ませて門を開け、近づいてくるパパ=ジョーは満面の笑みだ。

「でも、何」

「でもあたし、ふたりで見たカリブ海の稲妻、多分一生忘れないと思う」

「ヤァ・マン」と、パパ=ジョーが背中に隠していた右手を振り上げた。その手には花束のようなものを握りしめ、「気分はどうだい」

よく見るとそれは茎ごと乾燥させたガンジャの束で、次の瞬間、まるで薔薇の花束でも捧げるかのように彼女の前で片膝をついた。

「グッド・フォー・ユー」

「ほらね」と、そうして吹き出した彼女の大きな笑顔こそ、多分一生忘れられない。同時にパパ=ジョーとその他諸々、色々と思い出してしまうだろうが。











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