フウイヌム教団

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった(ヨハネ1:1)


遠く幽かに初雷の残る夕刻のことだ。未明から降り続いた温かな雨も昼過ぎにはあがって、濡れたアスファルトにやがて沈む薄日が反射している。しばらくご無沙汰している飲み屋に出かけようと、玄関を開けたところで彼と鉢合わせすることになった。出会い頭というやつだ。いつもならチャイムが鳴っても無視するのだが、これでは居留守も使えない。

「言葉を、信じますか」

彼は例によって馬のかぶり物で顔を隠している。その声は、おそらくまだ若い男性のものだが、不思議なことに、マスクの下でくぐもっているという感じはしない。とても鮮明でまっすぐな声だ。

「言葉って、なんの」

一刻も早くこの男から逃げなくてはなるまい。玄関に鍵をかけるために彼に背を向けたのだが、投げやりにとはいえ、受け答えをしてしまったのは失敗だった。俄かに馬男が勢いづく。

「今はもう末期的です。誰も本当のことを口にしない。噓ばかりが飛び交って、言葉を冒涜しています。フウイヌムの神がお怒りです」と、穏やかだが強い口調で、振り向くとまた一歩近寄っている。逃げ場がない。

父親が残してくれた小さな一戸建ての、玄関から門まで続く飛び石の両側には椿の木が植えられていて、日当たりが悪いためにようやく咲き始めたばかりでそれなりに綺麗だったが、今はこの深い緑のせいで彼の横をすり抜けていくことが出来ない。馬男を押し戻さない限り敷地の外には出られなかった。こちらも強く出るしかない。

「じゃあ本当のことを言うよ。興味がないので放っておいてください」

「それはできません。私たちは誰であれ、古くからの友人のように接します。差別や区別もありません。そして友人は、助け合うものです」

「ご立派ですね」と、皮肉のつもりで言った。「理性を磨け、理性によって行え。でしたっけ」

それを聞くとまた、彼の声が弾んだ。

「そうです。その通りです。よくご存じですね」

脱力し、溜息が出る。そう、「よくご存じ」なのだ。かつて付き合っていた女がフウイヌムに心酔してしまい、それが理由で別れたことがある。彼女に聞かされた教義や理想は今もよく覚えている。

「フウイヌムには病気も戦争もないの。祝福の詩を歌い、気高く生きて、寿命が尽きれば旅に出るように死ぬの」

 美しい言葉を紡いで歌うことだけが信仰の証だと、彼女は入信すると家にあった一切の書物を破棄し、新聞やネットの文字も読まなくなって、ただ直接耳で聞いた言葉と、自ら歌う詩だけが真実だと言った。フウイヌムは文字を持たないのだ。そしてそういう人間にとっては、まことに生きずらい世界であるようだった。何度となく騙され、傷つけられて、それでも彼女は理性を保ち、優しい言葉だけを口にし続けた。最愛の人に理解されず、嘲笑されて、うち捨てられても。

「一度、教会へいらっしゃいませんか」と、能天気に勧誘するこの馬男と同じように、圧倒的な善意の塊として生きようとしたのだ。

「わかったからパンフレットみたいなのを置いてってよ」

あとで読んでおくからと、お引き取り願うための方便とはいえ、我ながらこれは少々底意地が悪かった。案の定、彼はあからさまに肩を落とし、

「残念ながら私たちは文字というものを持ちませんので」

「なんで」と、善良なる信徒を更に追い込んでしまう。「習ったでしょう、読み書き」

「もちろんです。だけど、捨てました。文字は、汚れています。正確に言うと、汚れていくものなのです」

文字や文章は容易に伝えられていくけれど、次第に誰の言葉だったのかも曖昧になり、その意味や思いは希釈され、捻じ曲げられて、最初に発せられたものとはまったくの別物になってしまう。

「言葉は、信頼と親愛をもって人から人へ直接伝えられるべきものだから」

彼の言葉は言い訳めいて次第にか細くなっていき、今まさに信頼も親愛もない場所に放り出されて怯え、震えているように思われた。折しも学校帰りの小学生が三人、門の外で彼のかぶり物を揶揄っていく。子供たちの残酷な本性と、ただ早くビールにありつきたいがために急ぐ身勝手な男によって損なわれてしまうくらいに繊細な信仰なのだ。けれども、本当の信仰というのはそういうものかもしれない。迷いながらも求め続けるなにか。少なくとも、人が人を裁き、その硬直した正義によって人殺しが正当化されるような強大で権威的な宗教よりずっと親しみが持てる。なにより、信仰の対象が馬というのが好ましい。信仰が揺れているわけではないのだろうが、どことなく自信のなさそうな彼と話していると、何故だかそんなふうに思えてくるのだった。だからといってもちろん、今更フウイヌムを信じるつもりはなかったが。

「もういいかな」

夜が迫っている。これ以上こうしていると、感傷のあまり彼に詩のひとつもねだってしまいそうだ。あるいは逆に、際限なく恨みごとをぶつけてしまうかもしれない。追憶に飲みこまれそうだった。

「出かけるんだ」

それを聞くと彼は、最後にひとつ嘶くこともなく、素直に体の向きを変えて立ち去った。野蛮で邪悪なヤフーを責めるように、間延びした雷がまた遠く響いたが、すっかり暗くなった空に稲光が広がることはない。




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