光あれ

誰もが光のなかにいるという事実を私たちは忘れがちだ。それは、眩いばかりのスポットライトを浴びたり、一家団欒の慎ましい食卓の灯りに包まれるといった些末なことではなく、いついかなる時であっても世界に遍く降り注ぐ光の話だ。仮に盲いて認識できなくなったとしても、彼や彼女の周りには常に光がある。光がなければ、彼や彼女の姿は誰にも見えなくなってしまう。この世界の形あるありとあらゆるものは、光によってその存在が認識されている。光の反射によって形が分かり、光の波長が色をつける。ただし、もちろん光自体には形などないし、同様に色彩を内包しているわけでもない。ある物体や風景から得られる光の情報を、私たちの脳は無意識に再構築しているのだという。それがつまり、「見る」ということだ。私たちが見ている色や形は本当の姿ではないかもしれず、私とあなたが見ているものがそれぞれの脳内で再構築されたものである以上、まったく同じだとは言い切れない。世界は光が映し出すごく私的な映像体験である。

では光とは何か。光は粒子、あるいは波動、実際のところよく分かっていないらしい。聖書によればそれは神が作った。光あれ、と神が言ったから光ができた。神はそれを見て満足し、光と闇とを分けたとある。ここでよく考えてみて欲しいのだが、闇は光より先にすでに存在していたのだ。闇こそが世界の本質、と言っても過言ではない。私たちは常に光のなかにいて、光によって世界を捉えているけれど、カンバスに下塗りされているのはあくまで闇なのだ。削り出しやスクラッチの画法で世界を描こうとすれば必然的に闇が滲みでる。それでもなお深く削っていけばカンバスさえ破いてしまうだろう。そうなれば世界の破滅だ。私たちに必要なのは、グレージングやスフマートの繊細さで、透明な美しい色彩を幾層にも重ねていくことではないか。決して真実を覆い隠すのではない。そうすることによってむしろ本質に近づくのだ。ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』やラファエロが描いた聖母のように。もとより、私たちが見ているものが全て脳内の幻影に過ぎないのなら、真実などというものにいったい何の意味があるのでしょう。



なるほど、よく分かったわ。だから昨夜あなたが、いいえ、もう今日ね、午前二時に歌舞伎町のホテルからどこかのアバズレと腕を組んで出てきたとしても、それは本当のことではないと言い張るのね。あたしの脳が勝手に再構築したんだって。あんまり根掘り葉掘り詮索するなって、そういうことよね。じゃあ聞くけど、あなたの個人的な映像体験では昨夜の世界はどんな感じだったのかしら。あたしに言わせれば、世界の真実は現象なの。あなたの言うとおり、あたしたちは皆それぞれ違ったものを見ているのかもしれない。あなたの頭のなかなんか想像したくもないし、思いとか気持ちなんていう曖昧なものは絶対に信じない。あたしにとって重要なのは、誰がいつ、どこで、何をしたかなの。行動と現象が世界を作っているの。あなたが、昨夜、あの女とどんなふうにまぐわったのかって訊いてるのよ、クソッタレ!失礼…



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