猫の空き家
この界隈にはまだ木造の古い住宅が多く残っていて、昨今は空き家も増えた。公園の裏手にも一件、明らかに誰も住んでいない、いや、もはや人の住めなくなった廃屋があるが、そこでキジトラの大きな猫が暮らしている。木造といっても外壁は赤錆色のトタンで、ところどころ変形し、腐食して内側の木枠が露出がしてしまっている。猫が出入りしているのも、トタンが捲れたそうした穴のひとつだ。玄関の引き戸も外れてしまって、ただ立てかけられてあるだけだから、そんな小さな穴をすり抜けなくともよさそうなものだが、猫というのはそういうものだ。僕は一度、腹のあたりが閊えそうになりながらグイグイと穴に押し入っていく奴を目撃したことがある。なんとかそこを抜けてなかに入ったキジトラが、道に面した窓の摺りガラスに体をつけて丸くなるのが見えた。ガラス越しに布団やら段ボールやらが山積みになっているのが分かるのだが、おそらく、丸められた洋服のような柔らかいものの上に落ち着いたのだ。日当たりもとてもいい窓で、いかにも温かそうだった。
僕はその家の前を通る度に、窓のなかに猫を探すようになった。猫はもちろん、いたりいなかったりするわけだが、なかなかの頻度で見つけることができる。どうやらかなり気に入っている場所のようだ。猫がいれば、僕は公園のベンチに腰掛けてその様子をぼんやり眺めることもあった。ある時、ふいに猫が起き上がり、腰を伸ばすというか背中を丸めるというか、腰を伸ばして背骨を曲げるというか、とにかくそんな仕草で立ち上がり、続いて前足を前方に伸ばして頭を沈め、そんな一連のストレッチを終えるとひょいとどこかへ飛び降りる感じで消えた。しばらく待っていると、猫はあの小さな穴から再び姿を現し、小走りに道路を横切って近づいてくるではないか。見られていることに気づいたのかと少し身構える僕に、けれど猫は見向きもせずまっすぐブランコの方へと急ぐ。そこで待っているのは、小さなお婆さんだった。お婆さんはベンチに座って上体を屈ませ、掌を地面の近くで広げている。どうやら食べ物をのせているようだ。僕はまったく気づかなかったけれど、お婆さんが公園にやって来る足音を、猫はかなり早い段階で察知していたらしい。最後の数メートルを、スピードを上げて駆け寄っていく。と、次の瞬間には躊躇いもせず、嬉々として(という表現で間違ってはいないと思う)お婆さんの手から何かを食べ始めるのだ。
実は最近、素敵な女の子を欲する思春期の熱意にも似た思いで、猫を探しながら歩いているから分かるのだが、この町は野良猫にまったく優しくない。玄関脇や植木鉢の周りに水の入ったペットボトルが並べられている家ばかりだし、ブロック塀の上部にはガラスの欠片が埋め込まれていたりする。猫にエサをやらないでください、とまっすぐに要請する貼紙や看板も多い。確かこの公園にもあったはずだ。僕はゆっくりと、猫を驚かせないよう静かに、お婆さんに近づいた。それでも猫はもちろん気づいて、一瞬食べるのを止めたけれどちらりと僕を見上げただけですぐにまた食事に戻る。カリカリと硬いものを食む音を響かせて。
お婆さんがあげていたのは、ごく一般的なドライフードだった。ビニール袋に小分けにされたものを傍らに置き、掌から直に食べさせている。
「毎日ここであげてるんですか」
僕が声をかけると、お婆さんは小さな体をさらに縮めるようにして猫から目をあげようとしない。怒られる、と思ったのかもしれなかった。僕は急いでそうではないと話し、
「すっかり慣れてますね」と、羨ましそうに言った。
本当に羨ましかったから。
するとようやく、細かな無数の皺の底まで陽光を染み込ませた笑顔を、お婆さんは開く。
「だって、おなかすかせたら可哀想でしょ」
「そうですよね」と、それが少し大きな声になってしまい、猫が飛び退いた。
キジトラは、名残惜しそうにしばらくこちらを睨んでいたが、結局、それきりお婆さんの手の方に戻ってはこなかった。十分に食べたのだろうか、例の空き家とは反対の方角に、悠々と歩き去る。
「ごめんなさい」
そう言うしかなかった。
でも僕は、お婆さんの存在があんまり嬉しくて、もし仮に、地球人のふりをして暮らしている宇宙人がいたとして、雑踏のなか同郷の生命体に出会ったらこんな感じではなかろうか、とさえ思ったのだ。
「満足したんでしょう、きっと」
お婆さんは優しくそう言ってくれたけれど、もちろん本当のところは分からない。
そんなことのあった翌週、猫の空き家が半日足らずで取り壊されてしまって、以来、猫にもお婆さんにも会えていない。