なんか妖精みたい

店の前の駐車場に据えられたベンチに、今日もひとりのおじいさんが座っている。スーパーは午前10時の開店だが、その頃にはもうおじいさんはそこにいて、僕らが出勤してくる時にはまだ姿がない。品出しやらレジの準備やらに追われているどこかの段階で現れるのだろうが、誰もその瞬間を見た者はいない。

「ちっちゃくて、なんか妖精みたいね」

そんなふうに言うパートのおばさんを僕は笑った。

「妖精って、それ、むしろ節子さんのことでしょ」

齢の頃なら七十代、もしかしたら八十を超えているかもしれない。痩せた髪の毛はほぼ全て銀色で、日の当たり方によっては金色に見えることもある。僕は以前網棚おじさんに会ったことがあるが、彼とは違っておじいさんの服装はいたって普通だ。まぁ、何が普通なのか分かりづらい世相だけれど、デニムにパーカーならそう言って差し支えはないだろう。足元はもっと寒かった季節からずっとサンダルだ。全体的に身なりはとても清潔で、嫌な臭いもしない。ベンチは買い物用カートのプールの脇に置かれてあって、おじいさんはただそこに座って車の出入りや人の流れをぼんやり眺めている。眺めているのは、もしかしたら駐車場に面した道端に植えられたアジサイか街路樹の木蓮なのかもしれないが、とにかく日がな一日何かを。雨の日には多分雨を。客とカートが濡れないようにスーパーの建物から透明な蒲鉾状の屋根が伸びているので、雨はその緩やかな曲面を伝って流れる。それが楽しいのだろうか、そんな日はよく空を見上げている。いずれにしろ、おじいさんは誰かに迷惑をかけたり不快な思いをさせることもないので、僕らは放置しているし、客も気にしていないようだ。放っておけばいつの間にか、遅くとも夕方にはいなくなる。少なくとも、夜のシフトの人間はおじいさんのことを知らない。



「奥さんをね、待ってるの」と、控室で教えてくれたのは店長だ。「いつもご夫婦で来ていたの。でも旦那さんは絶対店に入らないで、奥さんが買い物を終えて出てくるまでいつもあそこに座って待ってたのよ」

男が買い物なんて、とでも思っているのか。だとしたら時代錯誤も甚だしいが、僕の生まれた島では珍しいことではなかった。スーパーの駐車場には軽トラックや軽自動車のなかで待っている「オジー」が何人もいた。島は今も変わらないだろうか。もう十年以上帰っていない。帰れないでいる。

「でも、奥さんなんか」

「そうね。今年に入ったくらいから見かけないわね」

店長は、出来れば知りたくないのかもしれなかった。

「そんなことよりほら、もう休憩終わりでしょ」と、椅子にかけてあったエプロンを放り投げて寄越した。「総菜売り場ちゃんと見てね。隙間なく並べないと」

でも、僕はなんだかおじいさんに親近感を覚えてしまい、彼と彼の奥さんのことが知りたくてたまらなくなった。その日の午後、店の入り口に溜まったカートを戻しに言った時に思い切って声をかけてしまう。僕が思い切って何かをすると大抵裏目に出るのは分かっていたはずなのに。

「いい天気ですね」

陳腐だけれど昔ながらのご挨拶。実際、本当に雲ひとつない好天で、アクリルの屋根の下にいると少し暑いくらいだった。するとおじいさんは、かすれがちな声で、ちくわぶ、と言った。

「もうちくわぶは置いてないのかな」と、それがおじいさんの返事だ。あんまり意外だったので思わず訊き返してしまった。ちくわぶなんて、僕は島を出るまで、というよりこのスーパーで働き始めるまで知らなかった。

「えっと…あると思いますよ。でももうおでんの季節も終わりだし」

初めて間近で正面から覗きこんだおじいさんの瞳は、とてもきれいな白目をしていた。不本意ながら、妖精という言葉がまた脳裏を過る。

「ちくわぶを仕入れておきなさいよ」

「一応まだ店頭には並んでいるはずですが」

それを聞くと、おじいさんは安心したかのように、気のせいだろうか、目じりの深い皺が微笑んだように見えた。駐車場には空きが目立ち、乳母車を押した女性が通り過ぎる。

「いつもここで何を」とはもう訊けなかったし、もちろん「奥さんは」とも。僕はちくわぶの意外性にすっかりやられていた。少し落胆もした。ちくわぶにこだわるような人間は絶対に島の出身者ではない。僕はおじいさんに何を、どんな物語を期待していたのだろう。

翌日、おじいさんは現れなかった。その翌日も、そのまた翌日も。



さらに何日か経って、再び寒さがぶり返したある日、僕がギターケースをぶら下げて出勤すると、まだ開店まで一時間以上あるというのに店の前に行列が出来ていて、それは自動ドアの前からガラス張りの壁を沿ってベンチとカート置き場の方まで続いている。少し雨が落ちていたから、屋根があるところに並んだのだろう。ベンチにはよく見かける近所の老夫婦が座って行列に埋もれていた。自動ドアを手で開けて店内に入ると、

「今日はライブかい」と、節子さんが声をかけてきたので、いや、と首を振り、

「ただの練習…それよりこれ、どういうこと」

「さぁ。またトイレットペーパーの買い占めかしら」

「まさか」

今日もおじいさんは現れないのだろうか。僕はまだ気にしていたけれど、更衣室で制服に着替え、エプロンをして店に立つと、小姑のような店長にあれこれ指示されて忙殺されてしまう。

「あの、外の行列はなんなんですかね」

「知らないわよ、そんなこと。それよりほら、牛乳欠品してるよ」

すぐに開店時間がきて、このスーパーの安っぽいテーマ曲とアナウンスが流れる頃にはもう、行列は傘をさした人たちで駐車場の外まで延びている。自動ドアのスイッチを入れると、客が店内に雪崩れ込んできた。いらっしゃいませ、とマニュアル通りのお辞儀をする僕もそれに巻き込まれそうになって二、三歩退かなくてはならなかった。客たちは野菜の棚を素通りし、加工肉のコーナーを曲がってそのまま精肉売り場を突っ切り、あるいは菓子や調味料の棚の間をすり抜けて、練り物の冷蔵ケースに殺到する。

ちくわぶは、ものの数分で売り切れたようだ。人混みの中でいったいぜんたい何を掴んだのか「これじゃない」と、甲高い女性の声が響き渡り、あとには木霊のような苦情と不満の声ばかりが残った。

ちくわぶは完売しました、という手書きの告知を入口のガラスに貼りながら、島に帰ろう、と僕は思う。


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