全部思い出した
彼女が生まれたのは沖縄の離島のその東端、空港や港からもっとも遠い集落だ。彼女が小学生の頃、1950年代の終わりにはまだ舗装された道など一本もなく、収穫したサトウキビを運ぶのは赤い土埃をたてる馬車だった。トイレは汲み取り式で、溜めた糞尿はヤギや豚の飼料として再利用された。主食のサツマイモはそれぞれの家の畑で作っていたし、海の状態が良ければ男たちが沖合の環礁まで船を出して追い込み漁をする。要するに半農半漁の、ほとんど自給自足に近い暮らしぶりだった。
そんな田舎の集落にももちろん小学校はあって、当時は300名を超える児童が通っていた。ちなみに、近年創立100年を祝ったこの小学校は今も存在するが、全校児童はわずか48名。校舎と体育館ばかりが立派になる、村長の親戚が経営する土建屋に村の予算が流れるからと、彼女はよく嘆いている。それはともかく、これはその校舎がまだ、国民学校の時代から使われてきた木造のものだった頃の話しだ。
一家総出で収穫をしたサトウキビ畑が空っぽになった春先のこと。深紅のデイゴが燃え盛るように咲く放課後の校庭で、彼女はふたりの友達と遊んでいた。ゴム跳びだったかだるまさん転んだだったか、そのあたりは定かではないが、彼女はふと、どこからか聞こえる奇妙な音に気づく。ヒュンヒュンと、誰かが高速で縄跳びをしているような、強風で電線が咽ぶような、けれどももっと重く、甲高い、金属的な音だ。そしてそれは次第に大きくなって、何かが近づいている、と見上げた空に、巨大な金属の塊が浮かんでいる。彼女は最初、米軍の飛行機だと思った。米軍統治下の時代だからそうであってもおかしくはない。実際、島の上空を通過する米軍機なら何度も見たことはあるけれど、それにしては形が変だ。平たくて翼らしいものもない。なにより音が耳障りで、耳の中に張り付いて溜まっていく…そこで唐突に、恐怖がやって来た。ふたりの友達とほぼ同時に悲鳴をあげ、三人は逃げ出した。だがいったいどこへ? 赤土の上を転がるように右往左往しながら、最終的には校庭の片隅にある便所を目指した。ひたすら走る。ひとりが転んでしまったのを引っ張り上げ、また走らせる。膝を擦りむいたことなど、本人でさえ気にしなかった。そんな余裕はまるでなかったのだ。そうしてようやく便所のなかへ駆け込み、ひどい臭いの個室に三人で隠れたのだが、その間もヒュンヒュンという音はずっと頭上にあってどこへも行かない。彼女たちは震えながらも、やがて恐る恐る、個室を出て便所の入り口の壁際からそっと覗いてみる。するとそれは、まだ真上に浮かんでいる。金属のドアが開いていて、じっと彼女たちを見下ろす「大きなサングラスをした人」が見えた。目が合った、と彼女は言う。やっぱりアメリカさんだ、と、そこでその日の彼女の記憶は潰えてしまう。
彼女は島の高校を卒業すると、デザイナーになるという夢を抱いて上京する。東京近郊の縫製工場に就職し、そこで出会った、やはり沖縄の、けれども本島出身の青年と恋に落ちて結婚、一男一女を設ける。北区赤羽の慎ましいアパートに暮らし、出産を機に仕事は辞めたけれど夢は諦めきれず、家事と育児の合間にデザインが勉強だけは続けていた。そんなある日、長男が観ていたテレビの画面に彼女は衝撃を受ける。正確に言えば、それによって蘇った自身の記憶に。1970年代末のUFOブームに乗った特集番組で紹介されていたのは、あの夕方に彼女たちを追いかけた鉄の塊と、そこから覗いていた「大きなサングラスをした人」に他ならなかったから。どら焼きを押しつぶしたような形をした飛行船と、所謂グレイと呼ばれる異星人。大きなサングラスだと思ったのはアーモンド形のこの目だったのだと、彼女は初めて理解した。それにしても奇妙なのは、あの日の体験をそれまで一切思い出さなかったことだ。何もかもなかったことのように。一生のトラウマとなってもおかしくはないほどの恐怖だったはずなのに、まったく覚えていないなどということがあるだろうか。
彼女は俄かに不安になって、ふたりの友達に電話をかけてみる。ふたりとも島を離れて暮らしていたが、旧正月などで帰省すれば必ず会って長い話しをする。そんな時にも、一度もこの話題が出たことはなかった。
「ねぇ、あたしたち、UFOに追いかけられたことあるよね」
やはり、というべきか、ふたりとも記憶がないという。
「そんなことあったかしら」と。
あったのだ。彼女には確信がある。夢や妄想などでは絶対にない。デイゴの花と赤土の校庭、便所の悪臭、薄暗い空に浮かんだ金属の塊の、その質感、甲高い鼓膜に張り付くようなあの音、そして「大きなサングラスをした人」と目が合ったこと。全部覚えている。
「全部思い出した」と、妻は今も時々、この話しをする。
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