私を認めて

ある日、いつもの酒場のカウンターで飲んでいると、突然、獣の臭いをまとった男が飛び込むようにして隣に座り、言った。

「キョウコはどこにいる」

ちょうどその時、マスターと史上最強の横綱は誰かという議論になっていて、大鵬のライバルだった柏戸を推すと、

「あんた、そういうとこあるよな。通ぶってちょっと外してくる」

そんなふうに揶揄われて熱くなりかけたところだった。

「誰がどうしたって」と、その熱をそのまま、おそらくは初対面の男に向ける。

「キョウコをどこへやった」

「誰だよ、それ」

ビリー・ホリディが声を震わせるなか、一応記憶を辿ってみるけれど、その名前にどの漢字を当てはめてみても思い当たらない。比較的よくある名前だから、知り合いのリストにひとりもいないという方が不思議だった。男はといえば、こげ茶色のかなり傷んだ革ジャンを着て、白髪交じりの曲毛を無造作に伸ばした四十代後半。淀んだふたつの眼光が挑みかかってくる。

「あんたが匿ってるのは分かってるんだ」

そう言って男は、ふいに視線を外し、ズブロッカはあるかとマスタ―に訊ねた。もちろんある。多分、冷凍庫に。

「じゃあロックで」

そのまま放っておくか、勘定を払って店を出てしまってもよかったのだが、訊かずにはおれなかった。

「キョウコって、あんたの奥さんかなにかか」

男は頷き、ロックグラスのなかの酒をステアするマスターの手元をじっと見つめながら、

「とぼけやがって」と、吐き捨てる。

「いい女か」

「当たり前だ」

「いくつだ」

「歳か、三十八。いや、三十九になったんだ」

「随分歳の離れた夫婦だな」

「余計なお世話だ」

そうして男がグラスを掴むと、空気が俄かに張りつめる。だが幸い、それを投げつけられることはなかった。男は酒に口をつけるけれど、その様子を見る限り、すでに随分と飲んできているようだった。

何があったのか、訊くまでもなかった。湿っぽいうえに妙な言いがかりをつけられてまで飲みたくはない。それなのに、男はしつこかった。

「あんたがフラとやらの先生だろ」

「そんなふうに見えるか」

マスターがわざとらしく噴き出して笑うのが見えた。無理もない。フラはおろかハワイにも興味がない。その手のものとはもっとも遠いところにいる。

「ヨガとかエコとかなんとかセラピー、いや、テラピーか、まぁどっちでもいい」と、男はグラスを握りしめたまま、やがてカウンターに突っ伏してしまう。「私を認めてだってよ。ふざけやがって」

それでも男は、途切れがちにではあるが話を続けた。普段は面倒なことの嫌いなマスターが、珍しく促したようでもある。要するにこういうことだ。彼女は非常に優秀な編集者で、男はかつての上司だった。結婚してもう随分経つが子供はいない。それが不満だったのか、彼女はフラにのめりこんでいく。その講師の影響で(と、彼は思いこんでいる)すっかり自然派志向になった彼女は、あるいはその先のスピリチュアル的なものにもはまっているのかもしれない。いずれにしろ、この酔っ払いの亭主とうまくいかなくなった。とうとう彼女は家を出る。

「男は女を捜し回り、酔いつぶれる」と、最後に話をまとめてやった。「ありがちだな」

もっとも、男が全てを話したわけではない。都合の悪い部分は端折ったのかもしれない。いくつかのキーワードをマスターとふたりで繋ぎ合わせてみただけだ。男のズブロッカはほとんど減らないまま、氷はもうすっかり溶けている。眠ってしまったのかもしれない。

「でもやっぱり、ちょっと気になるな」

マスターが磨き終えたカクテルグラスをラックに戻しながら、声をひそめた。

「この人、拳がさ、かなり腫れてるんだよ」

「どういうこと」

右隣に座っている男の右手の甲はここからでは確認できなかったが、どうやら、マスターにはずっと見えていたのだ。

「殴ったんじゃないかな、誰かを。しかも相当ひどく」

「もしかしたら何かを」

「何か、の方であって欲しいね」と、マスターが少し首を振る。

ビリー・ホリディは延々と歌い続けている。そこにレスター・ヤングのテナー・サックスが絡みつく。こんな夜に『オール・オブ・ミー』は少々出来すぎだった。

「ところで」と、それ以上言わなくても、マスターには伝わったようだ。

「俺か、俺は世代的に千代の富士だよ。ウルフ」

「なるほど」

その夜から、一度も会ったことのないキョウコという女が心のなかに棲みついた。

「私を認めて」と、すすり泣いている。







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