今という断面図
太陽の光が地球に届くまで八分十九秒、それが月に反射して月が月であるために一秒ちょっとかかるという。つまり僕らは、八分前の太陽に生かされ、一秒前の月を愛でながら生きている。仮に今この瞬間に太陽が爆発しても、あと八分間だけはいつもと変わらぬ日常を送れるというわけだ。もっとも、太陽が大量の水素原子を消費し続けて次第にヘリウムの割合が上がり、今より五十倍、やがて数百倍にも膨張して燃え尽きるのは四十億年ほど先のことらしいから心配には及ばない。ちなみに、地球が形成されて四十五億年以上、四十億年前といえばやっと原始の海洋ができてその底に生命が誕生した頃。僕らは多分、地球という惑星が辿る長い歴史のちょうど真ん中あたりにいる。
それはさておき、僕は子供の頃、この太陽と地球、それに月の位置関係と距離感がうまく掴めなかった。特に満月が不思議で、太陽の光を正面から受ける月にどうして地球の影が映らないのかが分からない。もちろん理屈は知っていたけれど、感覚的に納得できなかったのだ。
「今度はね、準主役なのよ」と、彼女が芝居の話を延々と続ける間、僕はそんなことを考えていた。
「観に来てくれるでしょう」
春の日射しが窓一杯に降り注ぐこのカフェを待ち合わせ場所に指定したのは僕だ。この子と昼間に会うのは初めてかもしれない。深夜の酒場で知り合って、その日のうちに薄暗いベッドで体を合わせ、次の約束も夜、ずっと夜だった。月は満ちては欠け、また満ちていく。この青空のどこかに、月齢九日目の月がうっすらと見えるはずだった。
「ねぇ、聞いてる」
「聞いてるよ」
僕は窓の外に月を探すけれど、まだ昇ったばかりできっとビルの向こう側だ。
「聞いてるけど、ごめん、興味ないんだ」と、僕は彼女に向き直り、珈琲に手を伸ばす。
「どういう意味」
「そのままの意味だよ」
珈琲は相変わらず美味かった。昔から、いつだってここの珈琲は裏切らない。店内のレイアウトもほとんど変わっていなかった。カウンターの奥に飾ってある星月夜の摸写が懐かしい。それを描いたマスターと一瞬だけ目が合ってすぐにそらす。
「私に、興味がないの」
「そうじゃなくて、芝居とか、そういう」
なんであれ、今という瞬間に展開されるものが信じられないと僕は言った。
「ライブやダンスなんかも」
「そうだよ。今しかないこの時を共有しようなんて言われると吐き気がする」
そもそも、今という概念は無数の時系列の束、その断面であるように感じられる。決してある一点ではない。だから誰にも、誰とも共有などできない。僕にとっての今は、八分前の日射しと、一昨年亡くなった女の思い出と、スマトラで暮らすコーヒー豆農家の毎日と、その他諸々が重なりあって出来ている。このマンデリンの一滴のように。だが、彼女に理解してもらえるとは思わなかったし、包み隠さずそんな話をすれば嫌な気分にさせてしまうのは明らかだった。
「ごめんね、古いものが好きなんだ」と、別の理由をこじつけるけれど、彼女はもちろん、納得してはくれない。
「でも、たとえば古典って言われてるものだって当時はやっぱり『今』だったんじゃないの」
「そうだね」
「私たちの芝居だってそのうち古典になるかも」
とてもそうは思えなかったが、
「ごめん、さっき吐き気がするって言ったのは、あれ、別に悪い意味じゃなくて」
例えば空き家があるとするでしょう。そうするとその家の今には、昔からそこに暮らしていた幸福な家族の、長男や長女が独立していって取り残された老夫婦の、もしかしたら夫を見送った老婆の思い出なんかが染みついていたりして、もちろん本当のことは知らないわけだけれど、そういうことがつまり、吐き気がするほど重たいのだと説明する。
「今っていう時間は濃厚過ぎるんだ。その点、作品として完結した過去のものはほら、完全に切り離されてるからね。気が楽っていうか」
噓だ。もちろん、そういう作品にも後から纏わりつき、不随してくるものがある。今からは誰も、何物も逃れられない。
「よく分からないけど」と、彼女は小さな溜息を漏らした。「つまり、芝居には来てくれないのね」
もう一度、謝るしかなかった。
マスターが挨拶に来たのは、稽古があるからと彼女が先に店を出てからのことだ。それまで彼は、気を使って話しかけずにいてくれたようだった。いつもどおりきちんと蝶ネクタイを結び、タータンチェックのベストが少々きつそうだ。
「それにしても、久しぶりですね」
僕は頷き、
「お元気でしたか」と、彼の大仰な髭面を見上げる。「少し老けたみたいだ」
「お互いさまでしょう」
二年ぶりか、とそうしてふたりは色褪せた静物画のように笑いあった。
「やっと来れました」
何気なく窓の外に目をやると、ビルの影に儚げな半月が白斑のように染み付いている。八分前の日射しと、あの月の光との間には約一秒のタイムラグ。ニ年前のあの人がふいに現れてもおかしくはないはずだった。慌てる僕を睨みつけ、
「誰よ、さっきのあの女」
そんなふうに問い詰められ、追い詰められた僕に、するとマスターはきっと助け舟を出してくれる。
「珈琲、もう一杯いかがですか」
僕はそれで少し落ち着いて言うのだ。
「マスター、ありがとう」と。
いつかの今のように。